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剣豪じじい 1章

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無理もないと承知しながら、寅之助は続けた。
「では、以前の藩で学んだ特別な何かしらの能力をお持ちかどうか、うかがいたい。いかがでござる」
「そんなもの、ある訳ないだろう」
「算盤ぐらいはできるだろう」
「できるか」
ますます怒った。

「なるほどな。しかし、なにかこれといった特技なりなければ、仕官も仕事もないと思うがな。永遠に浪人をしているつもりか」
寅之助は皮肉をこめて言いながら、もう一度部屋を見わたした。
そのとき、畳まれた部屋の隅の掻巻の上に、ちょこんと置かれた小さな白い虫に気づいた。さっきもその虫を見つけたが、今も動かずじっとしている。

寅之助の視線に気づいた浪人が、掻巻に歩み寄り、その虫を指先でそっと摘まんだ。
「これは、娘の唯一の遊び相手のバッタさんだ。金がないので障子紙を切って、拙者が手で折ってやった。特技といえば剣術や土木工事の技術とは関係ないが、このような折り紙ならば得意でござる」
申し訳なさそうに語る一馬の肩幅が、小さくなった。
寅之助の手の平に乗った小さなバッタは、よく見ると足までが見事に折られている。
障子の四角い小さな穴は、バッタを作るための材料だったのだ。

このとき寅之助は二、三日前、御家人の組屋敷に流れた奇妙な内職の依頼の話をおもいだした。
貧乏人が多い御家人が、家の中でこっそりできる内職ということだった。
だが、条件があった。
指先が器用でなければこなせない、というのである。

竹の骨が放射状に並んだ、蛇の目傘だった。
骨と骨の細かい隙間に、特殊な紙を張り合わせ、円形を完成させるのだ。
蛇の目傘は金持ちの持ち物で、製造者の手間賃はおどろくほど高かった。
「傘貼りだと? そんなものできるか」
もちろん、浪人の一馬は怒った。

「いいえ、この仕事は特殊な人しかできないので、手間賃が高いのです。溜めてある今までの店賃もすぐに払え、生活が楽になります。武士の体面ばかりでなく、すこしは奥さんや娘さんのことを考えてやったらどうですか。障子紙の切れ端で本物の虫を折ってしまう貴殿なら、間違いなくできます。家の中の仕事なので、武士の貴殿が傘貼りをしていることはだれにも知られません」

年寄りの御家人の、穏やかな説得だった。
一馬は黙ってしまった。
「どうでしょう。私がお世話をしますよ」
その機を逃さず、大屋の七兵衛が仲に入った。

結果、大野一馬の腕は寅之助が見立てたとおりで、いまは長屋の浪人仲間にもその技術を教えているという。

17
「おい、寅之助」
灰色の法衣を着た鶯谷の茶の師匠、次郎兵衛だった。
「なんだ、茶屋のお茶を飲むのか」
「こっちまで用があったので寄ってみた。ところで……」
下膨れの頬をなで、次郎兵が訊ねる。

「ちかごろ江戸の町に出没している、骨ばった瘦せ型の剣豪じじいというのは、おまえじゃねえのか?」
「剣豪じじい? さあ、どうかなあ」
寅之助は湯呑み茶碗を置き、骨ばって日焼けした首を傾げた。
神田川の柳の木の枝が、風になびいた。

「ところで次郎兵衛、地蔵堂で出会ったとき、競りで茶器を落としたいといったな。その器、手に入れたのか」
「ああ、手に入れた。あの地蔵様は信用できるぜ」
「たしかに信用できるな」
寅之助も、うん、うん、とうなずいた。

今日も一人、寅之助は、川岸で茶をすすった。
水鳥が滑るように川面を飛んだ。
川岸の柳の芽が柔らかだ。
寅之助は、三代将軍、家光の新陰流の剣術師範でもあった柳生宗矩(むねのり)の一筆をおもいだした。

『剣豪の時代は終わった。武士は合戦時の心構えをもち、天下を乱さぬよう国を守っていかねばならぬ。太平の世、武士は民のために働かねばならぬ』
そして青雲斎の師であった伊藤一刀斎の言葉が重なる。
『人のために生きる剣。剣は人のために使うんだ、若いの』
「そうだな」
しだれ柳の陰で、七十歳の若者である寅之助はつぶやいた。
(●2章に続く)
作品名:剣豪じじい 1章 作家名:いつか京