剣豪じじい 1章
「さきほどの一刀流の剣捌き、見事でございました。亡くなられた方の剣術もすごかったのですが、青雲斎殿の袈裟切りは、まこと、ほれぼれいたしました。斬られた者が斬られた現実に気づかず、左右に別れたまま先に進もうとさえしていました」
溜息をつき、頬さえ赤らめている。
娘の思わぬ反応に、裸の青雲斎はたゆる褌をぎゅうと締め直し、姿勢をただした。
「ところで娘さん。なぜこんな山奥へ? そしてどちらへ?」
ようやく青雲斎は、改めて問うた。
「江戸へ剣術の修業に行く途中です」
「ほう、江戸へ剣術の修業でござるか? そして、どちらから?」
「会津でございます」
「会津とな」
青雲斎はちょっとばかりおどろき声を漏らした。
山田青雲斎輔矩(すけのり)は、徳川の幕臣、保科会津藩主、保科正之(ほしなまさゆき)に仕える身である。
もちろん剣術の修行であるから、山に籠る件は特秘である。
たった一人、藩主の了解を得、山に籠った。
娘が知らないのも当然である。
もっとも会津と言っても、三家、六家と実力者の家系が藩主を支え、内情の説明はすこしばかりややこしい。
「一度故郷にもどり、失った二人の共の件などを報告せねばなりません。申し遅れましたが、名前は菊乃と申します」
しとやかに頭を下げた。
ただの武士の娘ではないことは、寅之助も感づいていた。
だが青雲斎は、詮索はしなかった。
「寅之助、この娘さんを今夜のねぐらである上の小屋までに案内いたせ」
はっと答え、寅之助は頭を下げた。
「菊野殿、ねぐらに案内いたします。遺体は明日、夜が明けたとき後片づけに参ります」
三人は、寅之助を先頭に斜面を登っていった。
月も星も満開の夜空である。
『刀は人のためにある』という伊藤一刀斎の悟りの言葉が、澄んだ空に凛として響き渡った。
一夜明けたとき、山の獣路に散っているはずの遺体は、ことごとく獣たちが持ち去り、跡形もなかった。
菊野は、寅之助が獣路沿いに遺体を確認している間に、着替えた青雲斎に連れられ、街道まで降りた。
そして、あとは一人で帰った。
12
それから一ヶ月ほどがすぎた。
仕留めた熊肉の燻製(くんせい)の作業中、肉を燻(いぶす)煙の向こうに人影があらわれた。
白髪と白鬚が肩に掛かっている。だが、いつもの褌姿ではなかった。
黒っぽい着物に、腰に二刀を差している。
草鞋をはき、ゆっくり近づいた。
その後ろの煙の中に、もう一人の影。
寅之助は神経を集中させた。
「やってるな」
話しかけてきた。殺気はなかった。
青雲斎のうしろにいたのは、着物姿の女性だった。
まだ若い。十八、九だろう。
「妻が着いた。紹介しておく」
青雲斎は、なんでもない日常のできごとのごとく告げた。
背後で娘が頭をさげた。
なんとあの時の女性、菊乃ではないか。
旅装束ではなく、きちんと着物を着ている。
青雲斎の正式名は、山田青雲斎輔矩(すけのり)。
会津藩の家老を務めた重鎮(じゅうちん)である。
修行中の剣術遣いに女房は場違いであろうが、菊乃の報告を受けた会津藩が、青雲斎の保護を兼ね、菊乃を送りこんできたのか。
八十歳を過ぎた老人が若い娘を娶る話は、江戸ではよく聞く。
子供さえ産ませた者もいる。
若い女と交われば、精神と肉体が蘇(よみがえ)る、と信じている者もいるのだ。
近頃、青雲斎の殺気が柔らかくなっていたのはこのせいか。
もしかしたら、剣豪志願の菊乃のほうが、青雲斎に仕えるために申し出たのか。
青雲斎は菊乃を連れ、そくさくと小屋への路を急いだ。
寅之助は、二人の姿を息を飲んで見送った。
青雲斎の殺気が削がれ、浮足立っているように見える──。
もしそうなら、自分が青雲斎に見くびられているのだ。
ちょっと悔しかった。
「そうだ」
寅之助の後頭部がはじけた。
「やってみよう」
青雲斎は、伊藤一刀斎が訊ねてきた日、二度も師匠に不意打ちをかけた。
その意気だ。自分のやってみるのだ。いつやるか。
「今だ」
全身に覇気走った。
浮きたっているときを狙うのだ。
青雲斎がどう対応するか、見ものである。
寅之助は、煙る焚き火のまえで立ちあがった。
寅之助は刀を差した腰に手を当て、即座に走りだした。
木立のふもとに並ぶ墓標。
森閑とし、会津の山々を見守っている。
墓標のまえをすり抜け、青雲斎の小屋の横にでた。
青雲斎は落ち着きはらい、すましていたが、いつもの覇気がなかった。
眼光も緩んでいた。
小屋にむかう足取りも、いつもよりも軽かった。
もっとも、剣術遣いがその気になってはならない、という決まりはどこにもない。
なにしろ、鍬の柄で地面を突き、空を飛ぶ力量の持ち主だ。
年は取っていても、力は有り余っている。
寅之助は足音を忍ばせ、小屋の横に回った。
傾いた小屋の柱と壁の隙間に、うっすらと割れ目が走っている。
まるで自分のことのように、どきどきした。
藁が突き出た土壁に、額をつけてみる。
予想どおりだった。
八十歳とはいえ、青雲斎も立派な男なのだ。
囲炉裏の火が燃えている。
着物や薄桃色の襦袢が散っている。
褌も、蛇のようにくねって放りだされている。
青雲斎の意外な取り乱しようだった。
小屋に入るや、乱暴に着物を剥いだようだ。
息つく間もなくはじまったのだ。
こっちに向けた青雲斎の尻が見えた。
青雲斎に抱え込まれた菊乃の白い脚が、ちらりと見える。
さすが師匠、素早い所作と感心している場合ではなかった。
青雲斎の尻は、八十にしては肉もしっかりつき、弛みも皺もなかった。
人間は、なぜこんな無防備な行為に夢中になるのか。
菊野は、あこがれの剣豪に抱かれる夢でも見ていたのか。
かすかな声を漏らす。
『今だ、飛びこめ』と思った。
しかし、上から打ちおろせば、二人を斬り裂いてしまう。
寅之助はからだの力を緩め、唇を噛んだ。
一息つき、また壁の隙間に顔をつけなおした。
襲うのは、青雲斎が女のからだから離れたときにしよう、と刀の柄を握りなおした。
八十歳がどこまで頑張れるのか。これも修行のうちに入るのか。
青雲斎は生命力にあふれていたが、必死だった。
命を躍動させている──。
そうだ、がんばれお師匠。
拳を握り、つい応援していた。
女の白い足が伸び、五本の指が反った。
「ぐうおう」
男の低い声がもれた。
ぴたりと、動きが止まった。
一瞬の静寂だった。
「あ……あれえ」
すると突如、女の悲鳴。
「青雲斎様、青雲斎様」
菊乃が、青雲斎の下から這いだした。
真っ白い肌に、くびれた腰。
乳が上側に反っている。
寅之助は右に跳び、小屋に走りこんだ。
青雲斎は、菊乃の膝もとで伏せっていた。
青雲斎のからだを起こした。
白目を剥いていた。
息をしていなかった。
13
遠く磐梯(ばんだい)山の頂が、うっすらと白い雪におおわれた。
青雲斎は亡くなった。
青雲斎は、弟子たちに山での自給自足の生活を強要し、体力とともに人間が備えている本来の生命力や勘のようなものを養わせた。
真剣勝負だと告げ、修業者の研ぎ澄まされた精神力を求めた。
そしてこれに耐えられない者が脱落し、また未熟なうちに師に挑戦した者が命を落とした。
青雲斎は弟子たちが眠る墓標の列に加えられた。