化け猫地蔵堂 3巻 3話 超人坊主
入口には筵が垂れていた。
伊織は筵をめくった。
伊織は肩で息をつぎ、目を凝らした。
小屋の中に人の気配はなかった。
「ごめんよ……」
ひんやりした暗い土間だった。
三つの檻がぼんやり並んでいる。
目を凝らしたが、手前の檻にも、その向こうの二つの檻にも人の影はない。
赤い着物の男も、白粉の女の姿もない。
「ごめんよ」
もう一度呼びかけ、耳を澄ました。
「おい、お~い」
刀を杖に土間に踏みこんだ。
しんとしたままだ。
筵(むしろ)一枚隔てた背後の雑踏が、不思議な世界の響きを思わせた。
伊織は息を殺し、二歩、三歩と進んだ。
やはり、檻の中にはだれもいなかった。
底にへばりついているのかと、檻に額をつけてみる。
が、樫の木組みの底板に、人影はなかった。
他の檻にも目を光らせたが、誰もいない。
「坊主はどこだ……小屋の主はどこだ」
つぶやき、暗い土間を見わたした。
隅の暗がりで、トラとミケも一緒になってあたりを見渡す。
「どこにいきやがった」
《ほら、あっちの方にだれかいるみたいだよ》
ミケが奥の突き当りの筵に目を凝らす。
その瞬間、ちらっと明かりが閃いた。
貼り合わせた筵の隙間からだ。
「なんだ、そんな所にいるのかよ」
伊織老人もそれに気付いた。
片手を泳がせ、ばたばたと表に出る。
表を通る参詣人が、刀をもって飛びだして来た浪人らしき年寄りに驚く。
だが、老人は通行人には目もくれず、小屋と小屋の隙間から中に消えた。
小屋の裏で箱に腰をおろし、男と女が火にあたっていた。
ばたばたっと音をたて、こぼれるように現れた伊織老人。
二人はぎょっと目を見開く。
赤い着物の男と白粉で化粧をした女だ。
男は片目を潰し、唇を腫らしている。
女の片方の目には半月状の青痣があった。
二人のすぐ脇は植え込みで、その向こうに参詣人たちの影があった。
裏の参道だった。
「なにか用かよ、じいさん。おどろかすんじゃねえぜ」
目を潰した赤い着物の男が、苦々し気に老人を睨む。
「檻にいた昨夜の坊主はどうした?」
刀を杖に、息づきながら伊織が問う。
「坊主だと?」
男は腫れた片目を見開き、傷ついた唇を舌でなめた。
「いい加減にしておくれよ」
目に痣のある女が怒りだした。
「だから、坊主はもういねえよ。くそ」
男が足もとの焚火を足で蹴った。
ぱっと火の粉が散る。
「いないだと?」
伊織老人は、かがみぎみの背筋を伸ばした。
「どこにいったかあ」
声をあげる。
鶏のように首が伸びた。
「なんだ、てめえは」
男が老人を睨みつける。
「拙者は、元佐貫藩家臣、水野伊織である」
伊織老人は杖にしていた刀を腰に当て直し、姿勢を正した。
小屋の主でもある男は、赤い着物の裾を横に払い、元藩士とやらに向き直った。
「あのくそ坊主なら、いましがた侍が来て連れていきやがったぜ。畜生めが」
ぺっと唾をはいた。血が滲んでいた。
「連れていっただと? なぜだ」
「知らねえよ。あいつは全海とか言う、めっぽう偉い坊さんなんだとよ」
「あたしたちにそんなこと分かる訳ないのに『尊い修行僧を檻に入れ、見世物にするとはなにごとか』って五、六、人でいきなり、ぽかすかだからね」
「刀抜かれて、お手打ちなんかじゃなくてよかったけどな」
伊織が杖にする黒鞘の太刀を見つめ、ふうと鼻で息を吐く。
「お陰でからだじゅうが……腰も蹴られたよ。あいたたた」
女が片手を腰にあて、大袈裟に顔を歪めた。
「おいこら。その坊主、どっちへいったか」
伊織老人の二つの目玉がいっそう大きく見開かれ、瞳に焚火の炎が揺れた。
着物の男はちょっと慌て、へい、と瞬いた。
「表の路を吉原のほうに行きやがったぜ。ほんのちょっとまえだ」
赤い着物の袖を揺らし、表の路を示した。
伊織老人は、ぎょろりと目を光らせた。
そしてものも言わず、小屋と小屋の隙の路に取って返した。
あまりもの勢いに、隙間に潜んでいたトラとミケは刀の杖の先に突かれ、転びそうになった。
表の参道は、相変わらず人でいっぱいだ。
トラとミケは夢中で飛び起き、伊織の後を追う。
《どこにいった、どこへいった》
《とにかく、この道、真っ直ぐでしょう》
トラとミケの猫はからだをくねらせ、人の足の間をぬって進んだ。
「おっと、ととっ……なんだ、なんだ、この猫は」
人間が猫を避け、足を躍らせる。
「ごめんよ、ごめんよ。ええい、ごめんよう」
伊織老人の声が、前の方から聞こえてきた。
人込みが、押しあいへしあいになった。
《坊主と侍たちは浅草寺の裏道を行き、吉原の土手から舟に乘ったんだよ》
ミケも巧みにからだをひねり、人の足をよける。
《結局、大川に出ようとしているんだな》
猫のからだのしなやかさで、二匹は右に左に足の間をすり抜ける。
そして、ついに伊織老人の背後に迫った。
刀を杖にした老人の出現に、人々はぎょっとして道を空ける。
伊織老人も前かがみの姿勢で頭を左右にふり、前へ前へと進む。
「なんとしてでも捕まえてやる。こんなことがあっていい訳がねえ。おれはまだ二十五だ。おれは船頭の言うとおり、たしかに何人もの年寄りを斬ってきた。だけど、あいつらは金の力で若い女を妾にしている人間の屑だ。死んだってどうってことのない連中ばっかりだ。頼まれて試し斬りをしてどこが悪い。おれは調べて、業突くそうな奴ばっかりを選んでた。あの坊主、訳もわからねえで勝手に人を裁きやがって。なにが修行の身の偉い坊主だ。ぜんかーい、どこだあ」
老人は篝火で明るい空に向かい、呼びかけた。
《こいつ、辻斬りを白状したよ》
《試し斬りをさせているのは、噂どおり名刀自慢の大名たちのようだったな》
老人が杖にしているのは、預かり物の刀だろう。
杖になんかしているが、中味は切れ味を試したくなるような名刀だ。
せわしげに手足を動かしながらトラとミケは、がむしゃらに伊織老人の後についていった。
「どけどけどけ、どけーい」
伊織老人の怒鳴り声があがる。
重なった人の壁に刀の鞘の先ではなく、腰を低くし、頭から突っ込んだ。
「なんだ。なんだよ、このじじい」
「じじいではない、拙者は元佐貫藩藩士水野伊織である」
「なに言ってやがる。浪人のじじいが、まだ侍のつもりか」
伊織はつまずき、とととと足を踏んだ。
「わあ、おれの腰にしがみつくな、えええい」
伊織老人は押しつぶされた。
刀を抱いて地面に腹這った老人を、踏みつけていく者がいる。
「あたた……ぶぶぶれ……うっぷ」
無礼者と言おうとした。
しかし後頭部を踏まれ、唇が地面をなめた。
息を継ごうと夢中で顔を上げる。
だれかの足にしがみつこうと手を伸ばす。
その腕をひょいと掴む者がおり、力強く体を起こされた。
口に入った泥を吐き、かたじけないと礼を言おうとしたが、男は人込みに消えた。
「そうだ、こんなことしてられないのだ。全海だ」
立ちあがった瞬間、伊織は、また突き飛ばされた。
あああっと声を漏らし、人込みを縫ってよろよろとよろけた。
作品名:化け猫地蔵堂 3巻 3話 超人坊主 作家名:いつか京