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化け猫地蔵堂 3巻 3話 超人坊主

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 それから二人が願掛けにやってきたが、軽い寝息をたてる老侍の姿に、 おどろいて引き返した。

4 
 伊織は目を覚ました。
 陽はすでに陰っていた。
 朝から日暮れまで眠っていたのだ。

 あたりを見まわし、あわてて自分の胸や両手足を両手で探った。
「なんだ、まだじじいのままじゃねえかよ」
 むむむっと唇を震わせた。
「どうしてだよ」
 目の前のお地蔵様を。ぐっとにらむ。

「この役たたず。ぶれいもの」
 口をひん曲げ、ぷっと空唾をはいた。
《おっと》
 天井裏のトラとミケは、思わずならんで身を反らした。

「それにもう、こんなに暮れてるじゃねえか。お助け地蔵とかを信用してとんだ時間を食っちまったぜ。いつまでもこんなことしてはいられぬ。あの糞坊主、とっ捕まえてぎゃふんて言わせ、もとの姿に戻させてやる」
 伊織は手足を泳がせ、立ち上がった。

 刀で杖をつき、曲がった腰を伸ばした。
「よし、いくぞ」
 言い放つや、ばたばた歩きだした。
 トラとミケは、地蔵堂の屋根から椎の木づたいに庭におりた。

「どけ、どけどけどけ」
 駿河台下の通りだった。
 伊織は、行く手の通行人を片手で横に払い、がつがつ刀の杖をついた。
 顎をまえに突きだし、前後左右にからだを揺らす。
 二匹の猫が後を追った。

 やがて伊織は、浅草橋までやってきた。
 川の匂いがあたりに広がる。
 川岸に船宿がならんでいる。
 伊織はそのうちの一本の橋にあがった。
 一艘の猪牙舟が艀に横づけされていた。

 煙管(きせる)を手にした頬被りの船頭が、舳(へさき)にしゃがんでいた。
「おう」
 伊織は声をかけた。
 船頭の返事も聞かず、どかどか音をたて、桟橋をわたった。
 舟に乗りこみ、どすんと真ん中に腰をおとした。

「浅草にやってくれい」
「へい……まいど」
 何者であろうと顔をしかめた船頭が、舳から船縁を伝い艫に移った。
 船の中央の台座に腰を下す客を、頬被りの手ぬぐいの下からちらりと見やる。
 馴れた物腰に、常連の客なのだろうと舫綱(もやい)を解き、作業にとりかかった。
 トラとミケも桟橋からとびおり、艫(とも)の筵(むしろ)の陰にもぐりこんだ。

 舳の尖った猪牙舟(ちょうきぶね)が、左右に揺れながら動きだす。
その先の大川を目指すのだ。
《せわしいやつだな》
《侍じじいの伊織は、いつもこんな舟に乘ってるみたいだよ》
 稲藁(いなわら)の匂いのする筵の陰で、そっと言葉をかわした。

《でも妙なじじいだよね》
《坊主の呪文で老人になったなんてなあ》
《なんとかしろって言われても、なんだか訳がわからないものね》
 猪牙舟は川岸にしだれる柳の枝を掠め、左に旋回した。

「お侍様、大川にでました」
 伊織はなにかを考えているかのごとく、黙って前方を見守る。
 地蔵様のまえで居眠りを始めたときのように、刀の柄を肩にもたせ掛け、じっとしている。
 頬被りの船頭がその背中をじっと見詰める。

 猪牙舟は名前のごとく牙の形に似、舟の先がするどく尖った早舟だ。
 櫓がしなった。
 舟が大川の流れに乘ったとき、意を決したように船頭が声をかけた。
「ご隠居さんが、あまりにもよく似た感じがするもんで……」
 一瞬の沈黙のあと、伊織が振り返った。
「よく似ているって、どういう意味だ」

 すでに大川の景色は灰色がかっていた。
「そのお侍は、ときどき旦那みたいに無言で桟橋を渡ってきて、舟に乘るんです」
 早々に提灯をつけた舟が、二艘、三艘と川を下っていく。
 明かりは、まだ白くぼやけていた。

 夕暮れ前のひんやりした風が、岸の葦を揺らした。
「いいから話してみな」
 伊織の頭がぐるっと動き、顎でうながした。

「こんな夕暮れどきです。そのお侍は舟に乘ると刀の柄を肩にもたせかけ……なにもかもがご隠居さんそっくりなんで、さっきからおどろいているんです。するとその夜、必ず今戸に辻斬りがでるんです」

 薄暗い川岸から、水鳥の群れが飛び立った。
 きしきしと羽ばたき、頭上を越えていく。
 無数の水鳥は、ぼんやりした空で点になった。

「今戸の川べりに出る辻斬りは、もしかしたらその若いお侍じゃないかって。歳はまるで違いますが、とにかく、仕草がご隠居とそっくりでして」
 船頭は、こほんと咳をした。
「おまえ、舟の客のみんなに、そのように、そいつが辻斬りではないかと、話しをしているのか?」
 ふり返り、半身を見せる老人の片目が頬被りの下で光った。

 トラとミケは蓙の隙間から耳を立て、前方をうかがっていた。
「いいえ、ご隠居の仕種がその若い侍にあまりにもよく似てるもんで、つい口にしただけです。こんな話はだれにもしやしません」
 船頭が艫で、へえと頭をさげる。

「そうだ。くだらぬ話はしないに限るな」
 にわかにあたりが暗くなった。
 伊織も船頭も黙った。
 櫓がしなった。
 舟縁に当たる水音。川面を走るかすかな風。

 老人は何度かちらりと背後の船頭をふりかえった。
 船頭も伊織の背中から目を放さなかった。
 なにがあったのかはっきりしないが、猪牙舟は奇妙な緊張感に包まれた。
 舟は蔵前をすぎ、浅草二丁目の川岸に近づいた。

 小の舟が舳を岸に着けていた。
 浅草寺の雷門にちかい舟着場である。
 二丁目をそのままとおりすぎる舟は、先の今戸の橋を左に曲がり、吉原へいく。
 伊織は船頭に銭をわたし、舟をおりた。

 あたりは、あっという間、夜の景色に変わっていた。
 観光地でもある浅草境内には、早くも篝火(かがりび)が揺れていた。
 その明かりが、ぼんやり夜の空に反射している。
 そこは、船着場から参拝者でにぎわう参道に通じる裏路だった。

舟をおりた伊織は、刀を杖にまえのめりの足どりで歩きだした。
「やっぱりただの年寄りだったか」
 そのうしろ姿を見守り、頬被りの中年の船頭が苦笑した。


 雷門の参道は左右に篝火が掲げられ、人影がぞろぞろ続いた。
 雷門が近くなると、さらに人が群れた。
 老人の水野伊織は刀を杖に、ばたばたと歩く。
「どけどけ。ごめんなすってよ」
 刀身の納まった杖がわりの鞘で、通行人を押し分けた。

 ぎんぎんの目を見開き、あんと口を開けている。
 異形な面構えで怒鳴る乱暴な侍老人に、だれもがぎょっとし、脇に逃げた。
 トラとミケの二匹は肩をならべ、老人を追った。
 人込みを避け、参道脇の植えこみの中を小枝を避けながら伴走する。

 老人が腰をあげ、一息つく。
「ちくしょう、拙者はなにゆえこんなじじいになりやがった。あの坊主め、とっ捕まえてぎゃふんて言わせてやる」
 篝火や提灯の明かりを眼に映し、伊織老人は前方を睨む。

 雷門が迫り、人出がさらに多くなった。
 門が大きく左右が開けられている。
 浅草寺の境内までは真っ直ぐだ。
 そこには、ずらり見世物小屋がつづいている。

 客の呼び込み声も重なる。
「どけどけどけ」
 伊織も声をあげ、進む。
 刀の鞘で腰を突かれた参拝客が、悲鳴を上げて脇に寄る。

 狂っているような年寄り侍の気迫だった。
 だれにも止められない。
「おう。ここだ、ここだ」
 伊織が腰に手を当て、立ち止まった。