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化け猫地蔵堂 3巻 2話 一日殿様

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 赤ん坊を抱え、駕籠のほうに顔をむけると、白い頬をかすかに染め、笑った。

《なんだ、なんだよ、今の娘さん》 
《房州のこの地域では、赤児を抱えた女はあんなふうに殿様を迎えるんでしょうか》
《みんな、なんだろうって見てたけど、お殿様、あの娘さんに見覚えはないんですか? あっそっか、あなたはトラだったっけね》
 ブチ猫はつい、化けたトラを忘れていた。

 小窓から外をのぞくと、駕籠が奥の門をくぐった。
 駕籠がとまると、何人もの男たちがまっていた。
もう城のなかだった。
 籠のすだれが開けられ、家老の高橋が告げる。
「城代家老の森田殿と年寄りたちが、お待ちでございます」

 城代家老は、殿様が江戸にでむいて留守のとき、藩を取り仕切る責任者である。
 年寄りたちは家老や側用人たちと同様、殿様のすぐ下で政治を補佐する役目を担う。その数は五人ほどである。

 殿様が駕籠からおりる。
 あたりを見回したが、ブチの姿が見当たらない。
 いかめしい桜藩の重臣たちの視線が、殿様に注がれる。
「おまちいたしておりました。お元気そうでなによりです」
 顔色のどす黒い大きな男が挨拶をした。
 厚い唇までが黒ずんでいる。

「元気ではない。胸がすこし苦しいし、手足もふるえておる。それに家老の高橋にも側用人の蒲生にも申したが、余は生前のいろいろなことがらを忘れ、頭がぼっとしておる。おまえは城代家老の森田とやらだな」
 色黒の大男はぎょろりと目玉をうごかし、額を光らせた家老の高橋に顔をむけた。
「殿はほんとうに一度亡くなったのだ。だが奇跡的に生き返った」
 家老の高橋が城代家老の森田に念をおすように告げる。

 森田が眉根をたがいちがいに寄せ、頭をさげる。
「余が急いで帰った理由は聞いておるな」
 殿様が念を押す。
「早馬で承知しております。しかしその、殿はどうして一日しか生きておられないのでございましょう?」
 当然、森田が訊ねる。

「一日だけあれば世継ぎを決め、桜藩十七万石の安泰が計れるというのでそうしたまでだ。皆の者、用意はできておるか」
「はい。評議を行う全員を、ご対面所のほうに招集いたしております。が、奥殿(おくでん)のほうで奥様方もお待ちです」

 目の前に、葛折(つづらお)れのなだらかな石の階段がのびていた。
 階段の左右には、緑に囲まれた屋敷の屋根が重なっていた。
右手の坂の一番上のほうに本丸があり、天守閣が聳えていた。
 城代家老の森田が、先頭に立った。
 階段はゆるいが、殿様の足は重かった。
 階段を一段一段、足を曳きずるように登った。

 中腹に着くと右手に田圃がひろがり、そのむこうに水面が光っていた。
 沼である。豊かそうな思いにとらわれたが、さっきの一揆のとおり、村人は食うや食わずの暮らしだったし、侍たちも昼飯抜きの生活である。
「殿、こちらでございます」
 城代家老の森田が、色黒の顔を殿様にむけた。

 天守閣のある本丸ではなく、その下に位置した普通の屋敷だった。
 殿様は門をくぐった。
 女たちが待っていた。
 二十人ほどいたが、みんな艶かしく美しかった。

 門をくぐったのは殿様だけで、家来たちは塀の外の道にそれた。
「お殿様、おかえりなさいませ」
 女たちが、上がり框に居並び、声をそろえて頭をさげた。
 家老の高橋が話していた側女(そばめ)たちらしかった。
「みんなも元気でなによりである」
 とりあえず殿様はあいさつをかえした。

 改めてそこにいる全員をながめなおす。
 みんな美人だ。十七、八から二十五、六。
 ほっそり型からむっちり型までいろいろだ。
 顔をあげた全員が殿様に笑みをむける。
 殿様はぶるんと首をふった。世継ぎのためとはいえ、夜な夜な大変だろうなと考えたからだ。いやこれも殿様の仕事のうちなのだとすぐ思い直す。

「これだけいて誰も余の子を宿していないというのか?」
 殿様が、草履を脱ぎ、上がり框(かまち)に立ちながら訊いた。
「はい。いまのところ残念ながら……」
 正面の女が答えた。
 背後に数人の小姓たちを従えている。
 態度や言葉づかいのようすから正妻のようだった。

「殿様、すぐにお食事を終えてくださいな。書院の間で大事な評議があるのでございましょう?」
 お布団が敷いてあります、どうぞそちらに、などと言われるのかと、はらはらしたが杞憂だった。

「唇が白っぽいですよ。気分が悪いんですか」
 正妻らしき女が、心配そうに殿様の顔をうかがう。
「ちょっと息が苦しいが、なんでもない」
 正面の座敷の襖が大きく開いていた。

 庭に面した廊下のむこうに、ひろい畳の部屋が望めた。
 廊下に午後の陽が差している。
 桜藩十七万石の殿様がどんな生活をしているのか、殿様は知らないが、そこが殿様の部屋のようだった。

「本日はお座敷のほうに遅い昼食が用意してございます。すぐに御召し上がりを」
 殿様は、まっすぐ奥の畳の部屋に入った。
 がらんとした部屋の真ん中に屏風が立てられ、そのまえにお膳が据えられていた。
 小姓が走ってきてお膳のまえに座布団を添えた。

 となりの部屋から、盆を捧げた別の小姓たちがでてきた。
 殿様のお膳には、茶碗に盛られたご飯が一杯。
 つぎの小姓がおかずの魚をならべる。
 それも尻尾のほうの半身である。
 さらにつぎの小姓が味噌汁を置く。

 お膳の横に正妻がすわり、ついてきた側女たちが正妻の背後に控えた。
「さ、御召しあがりくだされ」
 正妻がうなずいた。
 殿様は自分のまえのご飯をのぞきこんだ。

 一瞬、以前自分はなにかの動物だったのではないかと考えた。
 が、正妻も側女たちも素知らぬ顔でにこにこしている。
「これはなんだ」
 殿様が正妻に質問した。
「お食事ですが」
「これが殿様の食事だというのか……」

 殿様は、目を凝らした。
「ご自分でお決めになったのをお忘れですか。この国の殿様以外の者たちは一汁一菜で、一日二食でございます」
 殿様は頭をひねり、改めて自分を取り巻く女性たちを見なおした。
 みんなが着ている着物は木綿だった。

 殿様の奥屋敷だというのに、部屋にはなにもなかった。
 四十畳ほどの部屋はがらんとし、ひろびろとしていた。
 隅のほうに木製の檻のようなものが置かれている。
「殿様、お食事を召し上がりながら、いつものようにお江戸のようすをみなにお聞かせくださいまし」
 正妻が、町屋のかみさんのようにせがんだ。

 急いで半日の距離の桜藩とはいえ、江戸は、正妻をのぞいた女性たちには滅多に行けない憧れの都である。
「お江戸のようすはあとでゆっくり聞かせようぞ。そのまえにひとつ、あれはなんだ?」
 箸をもった手で背後の檻を示した。

 するとそこにいた全員が、くすくすと笑いだした。
「みなも、すでに聞いておるであろうが、余は以前のことはすっかり忘れた。なんであるか、あれは?」
「お殿様専用の檻でございます」
 正妻がすまして答える。
「余の専用の檻だと?」
「お殿様はときどきわがままになります。言い出したら聞きません。そのときはご家老の命令で、あそこに押し込めるのでございます」

「余を檻に入れるのか?」
「さようです」