化け猫地蔵堂 3巻 1話 殺人鬼
このとき、春日屋の表に荷車がとまった。
頬かむりの男が荷車の舵を握り、玄関をのぞくように首をのばした。
荷は米俵だ。
御用だといって、吉原の大門をくぐってきたのだろう。
《車屋の、左吉じゃないか?》
《こんなところに、なにしに来たんだろ?》
トラ猫とブチ猫は、ふわっとした毛並みを寄せ、石灯籠の下にしゃがんでいた。
春日屋の玄関先である。
営業開始の夕暮れどきであれば、にぎやかに客寄せの三味線が鳴り響き、背後の格子窓の内側には、お女郎さんたちがずらりと居ならぶ。
車屋の左吉は、玄関先の下男に声をかけた。
下男は、半纏(はんてん)のうしろ裾を尻からげにしている。
「災難だったねえ」
下男は伯耆をもつ手をとめた。
だれかに話しかけられるのをまっていたかのごとく、しゃべりはじめた。
「ハツはそんなに別嬪(べっぴん)じゃねえが、気性はよかった。料理屋の女中あがりで、いい旦那に身請けされるのを楽しみにしていた」
ハツと下男は、多少の懇意があったような口ぶりだった。
「料理屋の女中あがりって、どこのどんな料理屋で働いていたんだい?」
車屋の佐吉が訊ねた。
「料理屋たって、たいしたことはねえ。日本橋の小さな店よ。でも楽しかったってよく話してたぜ」
「ハツさんは、どこの生まれだったんだい?」
「訛りがなかったから、江戸っ子だろう。両親の墓は谷中にあるっていってたしな」
「兄弟はいねえのかい? それにその日本橋の小さな店って、なんて名なんだい?」
「なんだい車屋さん、お取り調べかい?」
下男がおどけ半分、本気半分聞き返した。
「いや、ただちょっと知りたかっただけだ。実は急ぎの用があるので。じゃあな」
車屋は屈んでいた腰をのばし、梶棒を握りなおした。
逃げ出すように去っていく。
《ほら、春日屋の玄関から臨時廻りの旦那がでてきたよ》
《関係者の尋問を終えたらしいな》
トラとブチがそろって顔をむける。
臨時廻りの同心は、無言で吉原の大門のほうに向かった。
子分の目明かしをしたがえている。
《あたらしい被害者のところに行くんだ。細川家の一件は相手が大名だから管轄外だしな》
トラ猫とブチ猫の二匹があとを追う。
同心一行は無言でうつむいて歩いた。
大川の辺りにでた。
船頭が羽織姿の同心を見つけ、寄ってきた。
一行は牙猪舟に乗った。もちろん船頭は料金を取らない。
トラとブチの猫は舟と平行し、大川の堤を走った。
《久しぶりで走って、気持ちがいいね》
《川風も吹いているしな》
堤の右手に倉庫が並びだした。蔵前である。
行く手に柳橋が見えてきた。
舟は右折し、橋の下をくぐった。
臨時廻り同心は舟の中央にたち、考えをめぐらせるかのごとく腕を組んでいた。
左右の川岸に青柳が揺れる。
日本橋の堀川に面した料理屋のまえには、野次馬が集まっていた。
やはりすでに、地域を受けもつ定廻りが来ていた。
店の表で、臨時廻りと定廻りが額を寄せ合っていた。
同心に付きそうそれぞれの目明かしたちが、まわりを囲っている。
《よし、別々に話を拾ってこよう》
《なんだか、忙しくなってきたね》
トラ猫とブチ猫はそこで別れ、野次馬の噂話を聞き回った。
寝込みを襲われたのは丸屋夫婦だった。
夫婦は一刀のもとに喉を突かれていた。
丸屋夫婦は苦労をし、ようやく日本橋に店をひらいた。
二人の出身地はわからない。
主は、仏の丸屋といわれるほど情けが深かった。
二人とも、他人に恨みを買うような人間ではない。
定廻り同心と臨時廻り同心は、目撃者や関係者に詰問を開始した。
小声でのやりとりのあと、最後に、他言はならぬぞ、とそれぞれに念を押した。
しばらくするとブチが、人の足の間から鼻先と口元の白い顔をのぞかせた。
《すごい話、聞いてきたよ》
トラのとなりに走り寄った。
《紀州紀伊家のお侍が、むこうの角から賊の男たちに指図してたって町人が言うんだよ》
《紀州のお侍だって?》
紀州といえば徳川御三家である。
《その町人が、羽織に三つ葵の紋のあるその侍の跡をつけたんだって。そうしたら赤坂門の紀伊家の中屋敷に入ったんだって。それでその男なんだけどね》
ブチは左右を見わたし、声をひそめた。
《定廻り同心に、他言はならぬと釘を刺された町人が、『秘密だからだれにも喋るんじゃねえぜ』って言って他人に喋ってあるいてんだよ》
どの男だ、とトラが野次馬のほうに顔をむける。
その視角に、ふいに車屋の左吉の姿が飛び込んできた。
左吉はさっきと同じ半纏(はんてん)姿で、料理屋の二階を見あげていた。
米俵の積まれた荷車が、そのむこうの柳の木の下で舵を下していた。
近所のおかみさんらしき二人が、左吉に近づいた。
佐吉は料理屋の二階にむけていた視線を、おかみさんの方に変えた。
「丸屋さん、災難だったねえ」
トラがぴんと耳を立てる。
吉原と同じように、丸屋と取引があったかのような口ぶりだ。
「いい人だったのに、なんで殺されなきゃいけなかったんだか。お金もなにも盗られていないっていうんだよ」
二人のおかみさんは、衝撃で胸をつまらせていた。
「丸屋さんは、むかし両国橋のたもとに店をだしていたんだろう?」
「両国からこっちにきても店ははやってたから、いつも七、八人の女中さんを使ってて、女中さんたちも、旦那の口利きでみんないいところに嫁(とつ)いでね。でも旦那さん、そんなこと一言だって自慢しないんだよ。ほんとうにいい旦那さんだったのに」
「使われていた女中さんのなかに、吉原で女郎さんになった人っていなかったかなあ?」
佐吉が訊きにかかった。
「吉原に?」
借金の質(かた)とかではなく、お金目当てでお勤めをする場合、稼ぎは料理屋の女中と吉原のお女郎さんでは雲泥の差だ。
一人のおかみさんが、小さくうなずいた。
「一人だけ、娘さんが吉原に行ったって聞いたけど」
「ハツっていうんですか? その娘さん」
車屋は、さっき耳にした名を口にした。
「名前は知りません。丸屋の奥さんがうれしそうによく話してたのは、その娘さんではなくて、どこかの大名の奥女中にあがった娘さんについてだったけどね」
「そうそう。そっちの娘さんはすごい美人だったそうでねえ」
自分たちのことのように話しだそうとする。
「すごい美人の娘さんの件ではなく、吉原にあがった娘さんの名前とか、出身地とかはわからないだろうかね?」
左吉がたたみかけるが、おかみさんたちの答えは容量をえなかった。
店の従業員に聞けばわかるのだろうが、まだ事情聴取が終わらず、店内に軟禁されていた。
《まちがいない。吉原のハツはこの店の出身だ》
トラはそう思った。
「おい、おめえ」
ふいに、佐吉に一人の男がちかづいた。
臨時廻りの同心についていた目明かしだ。
車屋の左吉も女房を殺され、当事者としていろいろ訊かれた身だった。
ほんの一週間くらいまえである。
目明かしは、車屋の左吉に小声で告げた。
「おまえの気持ちはわかるけど、やめな。内緒でいうが、今回の件には変にかかわりあわねえほうがいい」
作品名:化け猫地蔵堂 3巻 1話 殺人鬼 作家名:いつか京