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化け猫地蔵堂 2巻 2話 永久のひと

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ところがその日の左衛門は、朝食の魚が悪かったのか、医者の薬を服用した直後、胃の中のすべてを吐き出してしまった。
そしてそのとき、魚の匂いのする嘔吐を、寄ってきた飼い猫が舐めた。
瞬間、苦しんで走りまわる暇もなく、飼い猫はその場で倒れ、息絶えた。

 目を剥いた家猫の死体に、これはなんだ、と大騒ぎになった。
嘔吐の液のなかに、薄皮で包まれた数個の小さな袋が半分破け、青白い汁をひろげていた。
その朝、診察後に医者の前で服用した薬だ。
 殿様の左衛門は、鳥肌で蒼ざめた頬を左手で摩りながら、震えて見守った。

「あの医者は、おれを殺そうとしていた。前から飲んでいた薬も、飲むたびに気力が削がれるようで変だと思っていた……なぜだ」
 すると恐怖の眼差しで事態を見守っていた御付きの老女が、ぽつりと口にした。
「お殿様、それは彩乃様を手に入れるためです」

 左衛門は両拳を握りしめ、今度はぶるぶる腕をふるわせた。
「なにを言うか。おれは死なん。死なんぞ。棟庵のやつに図られ、危うくやられるところだった。なにが一ヶ月の余命だ。そうだ、そうだ、彩乃だ。彩乃は、どうした」
 夢中で叫んだ。

 背後に控えていた額に皺にある側用人が、落ち着いて答えた。
「おおせの通りにいたしました」
「まさか、まさか。おおー、おー、彩乃……」
 殿様の朝倉左衛門は、まさか、まさか、と叫びながら、家来の前で泣きだした。
そして、ふらふらっとよろけ、倒れ掛かった。

家来たちが、殿様を抱え込もうとあわてて飛びだした。
そのうちの若い一人が、嘔吐を踏んで足を滑らせ、横向きに転んだ。
そのときにあげた飛沫が、あっと叫ぶ若者の口に入るや、嘔吐のなかで手足をばたつかせ、すぐに息絶えた。

 ブチはこれらの騒ぎのすべてを、押し開けた障子の隙間に額をつけ、目撃していた。
 毒薬のものすごさに、どこかにいる暗殺者の恐ろしいほどの執念を感じた。


その夜、ふんどし一本の壮年の男が地蔵堂にあらわれた。
「観音様のお使いでございます。トラ猫さんにブチ猫さん。御用でお迎えにあがりました。ご一緒に涼月寺までお越し下さいとのことでございます」

 男は頬被りで尻はしょりをしている。
中背で痩せてはいたが、筋肉が引き締まっている。
貧相なようすではあったが、地蔵様を眺める目が澄んでいた。

《目の観音様の御用で、おれたちを呼びにきたんだ》
 腹這いになって休もうとしていたときだったが、眠気は一瞬にして吹き飛んだ。
《いきましょう》
 二匹は天井裏の背後の隙間にむかった。

 お堂のわきの椎の木を伝って降りてきた二匹の毛深い猫を眺め、頬被りの男は、うんとうなずいた。
あらかじめ観音様に、トラとブチの猫について教えられていたのだろう。
「ご案内いたします」
 茶トラと白黒のブチの猫に向かって丁寧な口をきき、男は、なんでもないように歩きだした。

 背後の二匹を振り返りながら神田川のほとりを、大川(隅田川)の方向にむかう。
月と星が輝く江戸の町はしんと静まり、平和な眠りの中にあった。
 男は大川のほとりまでやってきた。
盛りあがる滔々とした流れが、夜空の明かりを受け、魚の鱗のように輝く。

「ここから、舟に乗っていただきます」
 トラとブチが岸の小舟に乗り、並んで舳先(へさき)に座るや、舫(もやい)が解かれた。
小舟は江戸湾の上げ潮に乗り、両国橋をくぐった。
すぐ右が回向院だ。橋も回向院も、江戸の大火の直後に造られた。

江戸の大火のときは、風にあおられた炎と煙が人々を大川のほとりに追い詰めた。
だが橋がなかったので、焼け死ぬか川に飛び込むかしかなかった。
それで、多くの人が焼死か溺死かで命をおとした。
そのとき亡くなった人々を埋葬し、供養するために回向院が建てられた。

 橋ができると、大川の対岸にも武家の下屋敷や町家が広がった。
 だが、少し上流にいき、両岸の田や林を過ぎると荒れ地になる。
 舟は大川の流れに乗り、静かに進んだ。
せっかちな客を乗せた速舟が、波を蹴立てて追い抜いていく。

 迎えのふんどし一本の男は、黙って艫(とも)に立っている。
 ときどき暗い岸辺の木立の陰に、星明りに照らされたお寺の屋根が見える。
 しばらくいくと、岸辺を低い雑木と木立がおおった。
黒い陰の景色がつづいた後、ぽつんと明かりが灯った。

「あそこが涼月寺でございます」
 ふんどしの船頭が口を開いた。
舟の進行方向の、ちょうど舳先の上に明かりが灯っていた。

《ねえ、あの船頭、さっきからぜんぜん舟漕いでないよ》
 ブチが、ちらっと背後をふりむく。
《うん。たしかに櫂(かい)を手にしたまま、前を見てるだけだな》
 トラも、船頭が前方に目を凝らしたままでいる不思議さに気づいていた。

「ああ、このことですか」
 船頭は、四つの猫の目が見つめている櫂を持たままの手に気づき、穏やかに答えた。
「川は、歪曲して流れています。一日のうち、夜のほんの一時、その流れの外側が涼月寺のまえの川岸にぶつかるんです。もっとも潮の加減やらいろいろ条件がありそうですが、この時間帯のときは黙っていても舟が寺の前の岸に自然に横づけいたします」

 この話は、目の観音様からも二匹は聞いていた。
 舟はゆっくり流れ、岸に近づいた。
船頭の言うとおり、舟はずずっと川岸の砂利に舳先を乗り上げた。
川岸から奥に砂利の路が伸びている。
坂を登った高みに、反りのある藁葺の屋根が見えた。

 その坂の上から、三つの炎が岸にむかって降りてきた。
松明をもった寺の迎えの三人だった。
頭巾を被った観音様と二人の少年である。
「和尚様、おかえりなさい」
 三人は声をそろえた。

 男は船頭でも寺男でもなく、涼月寺の和尚さんだったのだ。
〖こんな夜中に、わざわざごくろうさまです。トラ猫さんにブチ猫さん〗
 観音様が膝を折ってしゃがみこみ、さっそく頭の中に話しかけてきた。
 観音様に呼び出されたトラとブチだったが、もちろん、舟の舳先で川風を受けながら、何が起こったのかと緊張していた。

《なにか、あったのでしょうか?》
トラとブチは喉を見せ、舳先から観音様を見上げた。
〖じつは昨夜、彩乃さんが流れ着いたのです〗
 以前と同じ静かな口調だった。

 え? とトラとブチは、半口を開けてしまった。
《まさか、彩乃さんの死体?》
〖いいえ。死体ではありません〗
《……》
 二匹は息を詰め、さらに観音様を見上げた。

〖私と同じように火傷を負っていました〗
トラとブチは、がちっと音がするほど強く奥歯を嚙んだ。
たしかに、そんな不吉な予感が、どこかに付きまとっていた。
トラとブチは互いに目を合わせたが、言葉が喉に詰まり、なにも言えなかった。

彩乃を助けられなかった悲しい一瞬だった。
《でも、流れ着いたって、どういうことなんだろう……》
 トラはつらい思いを打ち消すように、考えた。
観音様への問いかけではなく、思考が勝手にそうしゃべっていた。

〖自殺をしようと、大川に身を投げたのです〗
 観音様が応じた。
《おれたちが地蔵堂から、彩乃さんの駕籠を追って朝倉の屋敷に着いたとき、彩乃さんは、そのまま連れて行かれてしまったのか》