猫の女王
相手もこっちを睨んでいる。
自分と同じように背中を丸めている。
と、ぶぶぶと音がした。
目の前の風景がぐらっと動いた。
停まっていた車が走りだしたのだ。
同時に三毛猫の姿も消えた。
車の背後にならぶ、街路樹のプラタナスの幹が斑模様(まだらもよう)を見せた。
車のボデイに映っていたのは、自分自身だったのだ。
「おれは茶と白と黒の毛の三毛猫になってる。
しかも、さっきからむずっとしていたので、頭をさげ、両腕のあいだからうしろを覗いてみると、股間に、ぷっくらした二つの玉が付いていた。
おれは三毛猫の牡(おす)になっていやがった。
猫になったときから気が高揚(こうよう)し、力あふれる感じなのはこのせいか。
三毛の牡は、遺伝子的にも貴重だと言われていて珍しい。
船なんかに乗ったら、お守りにもなって大事にされる。
殿様扱いで牝(めす)猫にも持てて……おっと、そんなことじゃない。
はやいとこ紅葉の木の下を掘って人間にもどるんだ。急げ。
プラタナスの木立の路肩に沿って、三毛猫の銀次郎の足が勝手に動く。
右に曲がり、左に曲がり、十字路をつっきる。
まちがいなく、猫の帰省(きせい)本能だ。
ふいに木立が切れ、目の前が急な下り坂になった。丘の上にいたのだ。
眼下に、団地の建物がならんでいた。
そうだったのだ。病院は団地の丘の上の森のなかにあった。
その病院から団地にもどってきたのだ。
銀次郎は走って坂をくだり、団地の敷地に入った。
公道が、団地を囲むようにぐるっと走っている。
その一角に、見覚えのあるタワーがあった。
そこの道の反対側の路を入っていけば、三街区だ。
3
銀次郎は三街区の路を、独身者用の十五号棟を目指した。
すぐ、十五号棟にたどり着いた。
ベランダに跳びあがり、肩を戸に押し当て、横にスライドさせた。
すっと開いた。やはり戸締りができていなかった。
なかに入ると、まさしく自分の部屋だった。
うれしかった。
腹が減っていたので、座敷テーブルの上に置いてあったかりん糖の袋を爪でやぶった。
猫がかりん糖を食うのかなと思った瞬間、気持ち悪くなり、吐きだした。
とにかく紅葉の木の下を掘りかえし、猫が人間になるマタタビを見つけるのだ。
自分の家で一安心し、座布団の上に転がっている場合ではなかった。
三毛猫の銀次郎は、ベランダから庭に跳びおりた。
猫の視点になった庭は、ひろびろとしていた。
空に枝をのばした三本の紅葉が、斜面にかぶさるようにならんでいる。
正面から朝の太陽が射し、まぶしい。
だが、すぐに上空から照るようになる。
そこを縄張(なわばり)りにしている茶白のマダラ猫もまだいない。
芝の上をゆっくり歩き、斜面を登る。
紅葉の木の根元には、出刃包丁が白い刃を見せ、転がっている。
昨日使ったものだ。芝がめくれ、凹みができ、まわりに土が散っている。
さっそく手をのばしたが、猫の手で出刃包丁の柄は握れない。
それならばと両手の先に力を入れ、十本の爪を露出させた。
米田トメさんは、三種類のマタタビが埋まっているとはっきり話してくれた。
今、自分に必要なものは人間にもどるマタタビだ。
銀次郎は、真ん中の紅葉の木の根元に這いつくばった。
頭をさげ、薄緑の目を見開いた。
前足を交互に動かし、土を掻きはじめた。
ぱぱぱぱっとうまく土がはじける。
見事なものである。
やっぱり自分は猫になったのだな、とあらためて思いなおす。
その気になり、一気に土を掘りかえす。
だが猫の爪は、かしゃりとも瓶らしき器をこすらない。
もっと深くだ、と両手を必死に動かす。
掘った土が、左右の縁の外に積みあがる。
もう上半身が穴にのめりかけている。
すると背後のツツジの垣根のほうから声がした。
「おい……おい、そこの三毛猫」
自分のことかと手をとめ、顔をあげた。
ふり向くと、ツツジの茂みのなかに二匹の猫の影があった。
大きいのと小柄な猫だ。大きな体のほうは灰色で、小柄のほうは白だ。
灰色の大きなほうが、そろりとツツジの垣根からでてきた。
「お前、もしかしたら高田銀次郎じゃねえのか?」
「ええっ?」
それは、猫が尻尾を踏まれたときの『にぎゃ』というような声だった。
そうなのだ。あのとき、粉を吸いこんだのは自分だけではなかったのだ。
銀次郎は、いっしょにマタタビの粉を吸いこんだ二人の刑事の存在をすっかり忘れていた。
「もしや七千代署の八田刑事さん」
「そうだ。おれは七千代署の八田与吉だ。お前ほんとに高田銀次郎か?」
「はい、高田銀次郎です。まちがいありませんけど」
「ばかやろ。なんでもっとはっきり、こんなことになるって言わなかったんだよ」
答えた銀次郎に目をむき、いきなり怒鳴った。
「言いましたよ。でも刑事さん、信じなかったじゃないですか」
銀次郎も言いかえす。
ぐぶっと、唸り声のような溜息をつく八田刑事。
「まいったなあ」
三毛猫の銀次郎と灰猫の八田刑事の二匹が目を合わせ、同時に声をそろえた。
「朝おきたら猫語を話す猫になってやがった。マタタビの話、ほんとだったのかよ」
しばたたく灰猫の目は、黄色というか金色にちかかった。
灰猫の後ろにもう一匹、小柄な白猫がいた。
新米刑事の春野うららだった。
こっちは若い女性にふさわしく、白い体に明るい空色の目だ。
「どういうこと? こんなのってある訳ないのに、どうしてあるのよ」
茂みからでてくるなり、声高に訴えた。
半分泣き顔である。
それはそうだろう、目覚めたら猫になっていたなんて、おどろかない訳がない。
「おい、昨夜の話だと、人間にもどれるマタタビがあんだよな。どこにあんだ?」
灰猫の八田刑事の金色の目は、半分怒り、半分は途惑いでいっぱいだ。
「だからここを掘って探してるところなんです。おれだって、朝おきてびっくりしてんです。背中に甲羅(こうら)のある虫でなくてよかったです」
一言つけ足したが、八田にもうららにも分からなかった。
「探してるところだと? おい、おい、冗談じゃねえぞ。ばかやろ」
刑事の八田は、見開いた金色の目をくりくりさせる。
「米田トメさんの話ですと、人間にもどれるマタタビがここに埋まっているはずなんです」
「はずなんですって、どこにあんだよ。そもそも肝心のその米田トメは、どこにいったんだよ」
「わたしが推測したとおり、人間が猫のなるマタタビと、死んじゃう赤いマタタビなめて、スマホの写真のような猫になってしまったんじゃないですか? そっちのほうは刑事さんの専門のはずじゃないですか」
「あれえ、お前、本当に知らないって感じの物の言いかたじゃねえかよ」
前足を踏みこみ、ぐいっと睨みつけてくる。
「どういう感じか知りませんけど、とにかく、また人間にもどるんだから、ここに埋まっているはずの残りのマタタビ、いま探しているんです」
「探してるって、もしそのマタタビそこになかったらどうなるの? このまま永遠に猫なんじゃないでしょうね」
うららが潤(うる)んだブルーの目をまたたかせる。泣きそうだ。
「そうだ。そのマタタビ、なかったらどうなんだよ」
八田刑事が問いなおす。