猫の女王
3猫の世界に飛び込む
1
銀次郎はパトカーに乗せられ、病院につれていかれた。
団地の外へはほとんど出歩かなかったので、車が二度ばかり角を曲がったら、もう地理が分からなくなった。
木々の茂る道をぬけ、五、六分ほどで着いた。
かんたんな身体検査をおこなわれた。
血を採られ、注射を打たれた。
なんらかの嫌疑(けんぎ)を持たれたとしても、自分は潔白なので心配はなかった。
やりたいようにどうぞ、と気楽な心境だった。
奇妙な形の模様(もよう)がなに見えるかのテストなど、いろいろやられるのかと覚悟をしていた。
しかし生体検査がすむと、付き添っていた警官と看護師にすぐに個室につれていかれた。
そこのベッドに寝ろと命じられた。
ドアの外の警護係は刑事の八田(はった)でもうららでもなく、ふつうの警官だった。
その日は、朝から刑事に起こされた。
あれこれ憶測し、木の根元を掘り返したり、久しぶりに忙しかった。
そしてあっという間、ベットに寝かされた。
でも、自分は潔白なので絶対的な安心感があった。
だが、ありえないと思っていてもやはり心配だ。
まちがいなく、マタタビの粉を吸いこんだ。
刑事は笑っていたが、もし万が一、人間が猫になるマタタビだとしたら……心臓がどきどきした。
しかしそれは、米田(よねだ)トメさんの妄想(もうそう)なのだ。
つつましい印象の米田トメさんだった。
そういう嘘をつく人とも思えなかった。
もし本当に米田トメさんの言うとおりだとしたら……。
ぼんやり頭をめぐらす。
でも、それはりありえない、と考えなおす。
病院のベットで、仰向けに天井を眺め、何度もそれをくりかえす。
考え疲れ、だんだん眠くなる。
じじじじじっと、体のなかで虫が鳴きだす。
病院の診察室で、いきなり注射をされた。
なんのためなのかは聞かなかった。
されるがままに、じっとしていた。
注射はたんに眠剤(みんざい)が入っていただけだったのか……。
じじじという痺(しび)れは、薬が五臓六腑(ごぞうろっぷ)に染みこむ音か。
それぞれの臓器の細胞が反応し、騒ぎだしているのか。
気分は悪くない。
じじじじじっていい感じだ。
どこかの世界に吸いこまれていく気分だ。
まさか、朝になったら猫なんかになったりしていないだろうなと、ちょっと心配になる。
中学生のころだった。
カフカという作家の『変身』という小説を読んだ。
主人公が朝、目が覚ます。
硬い甲羅(こうら)のある背中で、ベットに仰向いていた。
自分の腹と、わらわら動く何本もの細い足が見えた。
銀次郎も、物語の主人公のように自分の腹を見た。
茶と白と黒の三色の毛の虫だってか?
背中も硬い甲羅ではなく、ふんわりした柔らかい毛で……。
あれ? これは猫の手と足じゃないか。
それで動かそうと思うと、自分の意思でふらふらって動くぞ。
それにぐっと力を入れると、指の先からにょきっと尖った爪がでてくる。
明かりに透けて白く光って……。
いつのまにか朝になってる。
カーテンの隙間から陽が射してる。
注射されたあの薬は、すぐ朝になる薬だったなんて……。
いやそうじゃない。柔らかそうなお腹の皮にぞろぞろ毛が生えて。
左右にのびた腕や下半身の太股にも毛が生えている。
手足の指先に力を入れると、にょきっと爪がでてくる。
もしかしたらこれ、猫じゃ……。
わあ、おれ、猫になってるじゃないか。
知らないうちに眠って……。
いや、これはこんなときによく見るお決まりの夢だ。
子供のころから猫と仲良しだったとしても、それとこれは別だろう。
股のあいだから、尻尾が上を向いてのぞいているぞ。
これもほれ、先っぽ曲がれって命令したとたら……
わあ、本当に曲がったあ。
「わあっ」
銀次郎はベッドから転げ落ちた。
意識もしていないのに、四本の足でふわっと着地した。
足の裏に肉球の感覚があった。
音もたてなかった。
それに、今、『わあっ』と叫んだつもりだったが『にやおーう』と大声で鳴いていた。
ガチャンと鍵がはずれた。
閉まっていた個室のドアがいきなり開いた。
外にいた係の警官だ。
ドアの隙間からおどろき顔で部屋をのぞかせた。
銀次郎は、隙間から廊下に跳びだした。
2
両手足をいっぱいにのばした。
入院患者たちがよたよた歩く朝の廊下を、走った。
頭を低くし、四本の足をすばやく動かし、人間の足をよける。
擬古地(ぎこち)なさはどこにもなかった。
力にあふれ、さっそうとし、いい気分だった。
ぼさぼさの髪も鼻毛も、きりっとした顔立ちのなかに消え、不精(ぶしょう)の跡形もない気分だ。
なんだか猫も悪くないな、と感嘆したくらいだ。
「こら、まて、野良猫」
誰かにそう呼ばれたような気がした。
しかし、自分は野良のつもりなどではなかったので、無視した。
階段を一気に、四階から一階まで、飛ぶように駆けおりる。
やっほーと叫びたいくらい元気だ。
広いガラス張りの玄関を、斜めに横切る。
人の足もとをすり抜け、表にでる。
全身が、ぱっと明るい陽につつまれた。
庭をつっきり、門をくぐるとアスファルトの道だった。
迷わず左に曲がって、まっすぐ走った。
これは絶対に夢だ。
でも知らないはずの道なのに、分かった気分で走ってる。
おれは家に帰るんだ。団地の自分の部屋にもどるんだ。
団地はこっちの方だと、勝手に感じてる。
遠くに捨てられた猫が、家に帰ってくる話をよく聞いた。
そうなのだ。猫には生まれついての帰省本能(きせいほんのう)があるんだ。
帰ったら、あの紅葉(もみじ)の木の下をもう一度堀ってみよう。
それで、もっと深く埋まっている他のマタタビを……。
ちょっとまてよ。マタタビと口にしたとき、全身をぐぐっと熱くうずかせた。
これは夢のはずなのに、胸が鼓動を打ってる。
足裏の肉球(にくきゅう)、がしっかりアスファルトを捉(とら)えている。
やばい、おれはほんとうに猫になってるじゃないか。
ネコババア、嘘なんかついていなかったようだ。
ネコババアは、マタタビには三種類の効能があると言っていた。
昨日の瓶のなかには、人間が猫になる種類が入っていたのか。
その袋が入っていた瓶(びん)は、芝をどけたらすぐにでてきた。
だからもっと深くを掘ったら、人間にもどれるマタタビが埋まっているだろう。
これは現実だろうか。
もしそうだとしたら、おれは……。
すると、ごーっと音をたて、車がすれすれをとおった。
からだの毛がぶわっとなびいた。
一瞬、隠遁生活(いんとんせいかつ)を邪魔されたような気がし、怒鳴った。
「ばかやろ、あぶねえじゃねえか」
が、すぐに我にかえった。
道路の真ん中を走っているのは自分のほうなのだ。
背後からまた車がきた。
あわてて道の端に駈け寄った。
するとそこに一匹の三毛猫がいた。
顔は薄い茶色で、額に縦の黒い筋が三本。
左耳が黒い。鼻先から口にかけ、白毛が三角のかたちに胸まで広がっている。
全身に茶と白と黒毛がばらばらに混じっている。
目は薄緑だ。
ようするに、どこにでもいる普通の三毛猫だ
とたんに敵意が湧いた。
咽からふーっと威嚇(いかく)の気が吐きでた。