猫の女王
9 ハニトラ娘現る
1
牡の三毛猫の力を存分に発揮し、何匹もの猫を殺してしまった。
人間だったら、大量殺人だ。
すごい体験をしたので、からだの震えが止まらない。
二街区の端から銀次郎が住む三街区までは、走れば五、六分だ。
だが建物の敷地内部の路をたどれば、曲がりくねっていて倍はかかる。
あっちに折れこっちに折れているので迷うのだ。
しかしそれは、そこに住む住民が便利に使うために設計された路なのである。
建物の前の庭をつっきればいいのだ。
大体の方向をきめ、追ってくる者がいないことを確かめ、三毛猫の銀次郎は走った。
日ノ元団地には、鬼花郷のサビ猫たちが住み着き、なにかを企んでいた。
丘状の芝や庭の端の茂みや、施設の建物の下やベランダに、サビ猫の影がありやしないかと銀次郎は目をこらした。
銀次郎がサビ猫からうばった武器の刃物は、二街区の建物のわきの生垣のなかに隠した。
建物と建物のあいだを抜け、団地内の路を横切る。
生垣をくぐり、つぎの建物の庭にでた。
すると明るい日差しのなかに、三匹のサビ猫のうしろ姿が浮かびあがった。
ぎょっとしかけたが、すぐに肩の力がぬけた。
陽を浴びた三匹は、すらりとして体も小さかった。
骨も細そうだ。まだ若い女性である。
人間でいえば十八、九というところか。
落ち着きなくあたりを見回しながら、ゆっくり銀次郎とおなじ方向に歩いている。
芝を蹴って走るささやかな銀次郎の足音。
気づいた一匹が、ふりむいた。
「おお、かわいい」
銀次郎は思わず口にし、足をとめた。
本当におどろいたので、声がでてしまったのだ。
他の二匹もふりむき、同じように大きな目を見開いた。
透きとおったきれいな目だった。
顔立ちもととのっていたし、やわらかな毛並みだ。
そして楚々(そそ)とした物腰がうかがえた。
猫になって間もない銀次郎だった。
でも、猫の美しさの感覚はちゃんと働いた。
「こんにちはあ」
三匹が、かわいらしく声をそろえた。
スタイルもよく、ミスユニバースの最終審査に残ったような空気に包まれている。
「君たちなに? なにしてるの、三匹そろって?」
直前の残酷な残像が、銀次郎の脳裏でかすんだ。
急いでいる自分もわすれた。
「わたしたち、日ノ元の歴史を勉強しにきました。歴史同好会女子部のメンバーで、わたしは希星(きらら)と申します」
最初にふりむいた女性が答えた。
「日ノ元の歴史?」
「日ノ元には伝統の歴史あります」
素直で純情そうな笑みだった。
「平和の伝統です」
「女王の教えです」
三匹が横にならんで口をそろえた。
みんな真剣な顔つきだ。
「女王の教え?」
「はい。とても貴重です」
銀次郎は、マダラ猫からちょっとだけその教えとやらを説明してもらった。
しかし、詳しくは知らない。
「ところで希星さん、あなたたちはどこからきたんですか?」
銀次郎はあらためて聞きかえした。
「鬼花郷団地」
三匹がいっせいにうなずいて答える。
「なんだ、となりじゃないか」
「となりでもかなり離れていて、トラックに乗せてもらって、日ノ元団地にくるには山道を三時間がかりでした。中心地から少しでもはずれると、山あり谷ありでたくさんの猫族が住んでいます。日ノ元とは環境も歴史もちがうんです」
希星がまじめに答える。
「ほう、どんなふうにちがうの?」
「実は鬼花郷の猫には、歴史がないんです」
「歴史がないって、どういうこと?」
人間のとき銀次郎は、地元の猫の歴史なんて考えもしなかった。
「雑多な猫族の集合体だったからです。支配をめぐり、それぞれがずっと争ってきました。中心地を離れると、今でも多くの猫族が対立しています」
「それで、争わずに平和に暮らすにはどうしたらいいのかと考えたのです」
「平和な世の中を築くために、日ノ元の歴史が参考になるんです」
銀次郎は三匹を見守った。
鬼花郷のサビ猫は、日ノ元郷地域を自分の物にしようと侵略中のようだった。
ドラ猫合唱隊をはじめとして、洗脳作戦や情報作戦を実施すると同時に、暴力組織も潜入させている。
それに対して日ノ元の猫たちは、気づいているのに何もしていない。
2
銀次郎は、さっきまでサビ猫と殺しあっていた。
サビ猫たちは、口にくわえたり、手先を器用に使って刃物を振るい、茶猫を切り裂いた。
飼育園のパンダが、束ねた竹を掴んで食う時のように器用な手の使い方だ。
当然この美人の三匹は何者か、という疑念が頭をもたげる。
「歴史にくわしい者を知ってるけど、紹介しようか?」
銀次郎はためしに提案してみた。
「おねがいします」
三匹が声をそろえた。
「おじさんはどうなんですか?」
三匹のうちのいちばんの美人、希星が銀次郎に問いかける。
おじさんではない、おれはまだ二十六だと心でつぶやく。
「まあ、くわしいけど」
「じゃあ、わたしを弟子にしてください。お願いします」
エサバーでもそうだが、清楚(せいそ)な美人にせがまれると心がさわぐ。
そしてそれが、男と女の妄想へとつながる。
やはり色仕掛けのハニートラップなのか。
銀次郎は、妄想をふりはらい次の質問を投げかけた。
「歴史を勉強する者は、あなたたちだけなの?」
「他にもいます。歴史だけではなく、日ノ元の言葉を勉強する語学研究生もたくさんいます」
「みんな女性なの?」
「はい。鬼花郷では女性が優秀なのです。男性は、歴史的に争うための戦士だったので精神が粗野で、学問にはむいていないのです」
「なるほど。それも、女性はみんなあなた達みたく美人なの?」
三匹は、くくくっと笑った。
「実は、日ノ元の歴史を学ぶヤングの女性会というのがあって、わたしたちが選ばれたんです。そして、歴史同好会女子部として今日から実践がスタートしたんです」
「それでトラックで運ばれてきて、日ノ元団地内で気に入った先生をさがし、個人レッスンを受けようというんですね?」
「はい、そうです」
三匹は、元気に明るく答えた。
「もし、私がいろいろ教えると言ったら家にくるかい?」
「もちろんです」
他の二匹もうなずく。
「家には私しかいなくて、お勉強の最中になにかがあっても知らないよ」
「なにかって、なんだか知りませんけど、その時はその時です」
希星は心持ち顔をふせ、唇を引き結ぶ。
他の二匹もうなずく。まるでそうなる事実を覚悟しているかのようだった。
言うまでもない。彼女たちはハニートラップ、色仕掛けのスパイだ。
ハニトラの工作員である。
ためしに、この美人を家につれていってみようか。
そして……と銀次郎は男女のその瞬間を頭に描き、めまいを感じた。
おい、馬鹿を考えるな、と自分をたしなめたとき、あの歌が聞こえた。