猫の女王
「はい、朝、おばさんはそういう花柄のパジャマで猫と話をしていました」
「猫と話をしていた? 米田トメさんは猫と話ができたのか?」
「話せたみたいですよ」
銀次郎はまじめ顔だった。
八田刑事は、唖然(あぜん)とした面持ちだった。
背後に控えた若い刑事と目を合わせた。
色が白く、頬にぽっと赤みがさし、小柄だった。
だが、警察の略帽(りゃくぼう)の後ろから短いポニーテールがのぞいていた。女性だったのだ。
女性刑事は、職業には似合わない春野うららと言う名前だった。
八田刑事は見習いみたいな若い女刑事、春野うららに笑いかけた。
だが、すぐに顔をしかめ、詰問をつづけた。
「それで高田銀次郎さん、本当は米田トメさんがどこに行ったのか、あなたご存知なんでしょう?」
どんな反応を見せるかとばかり、八田刑事は強引に問いかけた。
スマホには、ズボンと思われるパジャマが写っていた。
銀次郎は刑事のその一言で、ネコババアがいなくなったことを知った。
旅行とかではなかったのだ。
「米田トメさんがどこに行ったかなんて、知りませんよ。なにがあったんですか?」
「今、こっちが聞いてんの。米田トメさんが猫と話をしていたそうだけど、どんな話をしていたんだ?」
銀次郎は、はあとうなずき、首をかしげた。
「声は聞こえていましたけど、低くぼそぼそしていたので内容までは分りません。たぶん『昨日はどうしていたんですか』とか『元気ですか』とか『風邪ひかないようにね』とかじゃないですか」
刑事は苦笑いでうなずいた。
「それで猫ちゃんは、なんて答えたんだね」
「答えたとしても、こっちは猫語を知りませんので、どう答えたかなんて分りませんけど」
「猫語なんてあんのか?」
「あるのかどうか知りませんが、とにかく話しかけていました」
変らぬまじめ顔の銀次郎に、二人の刑事がまた顔を見合わせる。
「それでは、米田トメさんとあなたの場合はどんな話しをしていたんですか?」
銀次郎は迷った。『猫語』を口にして笑われたみたいだし、このさいはと考えた。
「おはようございますとか、いい天気ですねとか、お元気ですか、とかです」
「猫と大差のない会話だったというわけか」
実はこのとき、銀次郎の胸の内側を、ドキドキが跳ね回った。
嘘をついたからである。
しかしこの動揺を、猫レベルの会話かと揶揄(やゆ)されたからだと刑事たちは受けとめた。
米田トメとどんな話をしたのかと聞かれた瞬間、銀次郎は彼女との不思議な会話を思いだしていた。
3
『私は猫語が話せるんです。どうしてかというと、猫だからです』
そのとき銀次郎は、この人はちょっと頭がおかしいのだ、とすぐに気がついた。
しかし、猫をかわいがり、毎朝話しかけている優しい人なので、そういう気持ちになるのだろうと動じなかった。
その他にも、何回か不思議な話を聞いた記憶があった。
『マタタビには三種類あるんです。匂いを嗅ぐだけではなく、粉末を口にすると猫が人間になるものと、人間が猫になるものとです。もう一つは、からだに入ると干乾(ひから)びて死んでしまうものです。これは赤い色をしています。ただしこれらのマタタビは日本や朝鮮の山に生えているマタタビの木からではなく、中東のリビアという国のリビア高原の山に生えているものからしか採れないのです』
いきなり、リビアなどという遠い砂漠(さばく)の国の名がでてきた。
自分も猫になったり、また人間に戻れたりしたらいいなと考え、猫を酔わせるマタタビにそんな力があれば面白い、などと考えているうち、たどりついた妄想なのか。
米田トメはその後も、いくつかの独自の物語を銀次郎に語った。
『私たちの猫の祖先は、遠いリビアという国からきました。遥か昔のことです。日が昇る国の神を求め、東へ東へと旅を続け、苦難のはて、たどり着いたのが日ノ元の神の国でした。そこではすでに、猫の女王を中心にした争いのない平和な国ができていました』
妄想は辻褄(つじつま)をあわせるため、物語を変化させていくのだとなにかの本で読んだ。
だから銀次郎は黙って話を聞いていた。だが、一度だけ質問した。
『三種類のマタタビの話をしましたが、そのマタタビは、今どこにあるのですか?』
すると米田トメは、15号棟と14号棟の共有通路に立っていた足を踏みかえ、芝生の庭に植えられた三本の紅葉の木のほうに顔をむけた。
『あの三本の真ん中の紅葉の木の下に埋めてあります。あなたにいろいろ話したのは、もし、私に妙なことがあったとき、あなたなら何かしてくれると感じたからです』
そのときの米田トメの訴えるような眼差しを思いだし、銀次郎は口をつぐんだ。
「おい、どうした?」
五秒ほどの無言の空気に、刑事の八田が応じた。
銀次郎は息を継ぎなおし、八田に訊ねた。
「米田トメさんに、何があったんですか?」
「部屋のどこにもいなかったし、なかは荒らされてもおらず、きれいに整理されたままだ。だけど、布団とパジャマだけが変な乱れかたをして残されていた。もしかしたら米田トメさんは、もう亡くなっているのかも知れないな」
八田刑事はそう告げ、微妙(びみょう)な変化を逃すまいと銀次郎を見守る。
亡くなっている? どういう意味だろう?
銀次郎は、ショートカットの米田トメさんの大人しそうな笑顔を思い浮かべた。
「言っていること、分りませんけど」
八田刑事は、黙ってまたスマホを差しだした。
今度はパジャマの上着が写っていた。
そのパジャマの襟のあいだからは、干乾(ひから)びた猫が顔をのぞかせていた。
銀次郎は身体をかたくし、動揺をかくした。
「米田トメさんのパジャマを着て亡くなっていたのは、この猫だ。この猫に見おぼえはあるか?」
銀次郎は胸に息を詰め、八田刑事ともう一人の若い女刑事を見返した。
「見おぼえ? 猫にですか? この猫が米田トメさんを殺した犯人なんですか?」
「おい、米田トメさんが殺されたとも、猫が犯人だとも言ってないだろ。笑うんじゃないよ」
銀次郎は緊張をほぐすため、ちょっとだけ笑ってみた。苦笑いである。
二人の刑事は神妙(しんみょう)に二度三度とまばたき、反応を確かめるように銀次郎を見守った。
玄関の外に足音がした。
「鑑識(かんしき)ですが八田さん、ちょっと」
<改ページ>
2三種類のマタタビ
1
刑事たちが引きあげた。
銀次郎は、六畳の畳の中央にすわった。
胸のしずまりを待った。
表側の窓の外は芝生の庭だ。
明るい陽ざしのなかで、三本の紅葉(もみじ)が葉を茂らせている。
『あのスマホの写真……』パジャマの胸からのぞく干乾(ひから)びた頭部。
苦しんだのか。歯を剥きだしていた。
米田トメさんは、いつも疲れた顔をしていた。
あの青白さは病気だったのか。
『マタタビには三種類があるんです。匂いを嗅ぐだけではなく、粉末を口にすると猫が人間になるもの。人間が猫になるもの。もう一つは、干乾びて死んでしまうものです。これは赤い色をしています。でもこれらの三種のマタタビが採れるマタタビの木は、日本や朝鮮の山にはありません。遠いリビアという国のリビア高原の山にしか生えていないのです』