化け猫地蔵堂 1巻 3話 子を産む女
「どっかの色男って、まさかおまえのことじゃねえだろうな」
「よしてくださいよ、冗談じゃねえですぜ」
がらがらばしゃん、と若い男は釣瓶桶を井戸に落とした。
「わしもお高については考えていた。いつまでも放ってはおけん」
大家が、ぶるぶると唇をふるわせ、顔を洗った。
「むかいの家のお八重さんに聞いたが、じつは弥平は、お高にまんざらでもないっていうんだな。いいよ、さっそく話してみよう」
大家が手拭いで顔を拭きながら返事をする。
4
弥平は承知した。
お高も、弥平さんがいいって言うんならと同意した。
気が変わらぬうちにひっつけちゃえ、それ、と長屋じゅう大あわてだった。
その日の夕方、大家は屋子(たなご)たちを招集した。
「お高の家で内々で祝う。急だから、祝儀もなんにもいらないよ」
料理も長屋のもちよりだった。着物も普段着でよかった。
「さあ、弥平さんとお高さんはこっちだ」
大家さん自らが仕切った。
花嫁だけが着替えた。
弥平は藍染の仕事着のままだった。
一緒になってもいいとは言ったが、二人ともその日の祝言だとは知らなかった。
二人は呆気にとられ、ただ成行きを見守った。
「めでたい、めでたい」
みんなを眺め、大家が囃すように祝った。
「えーみなさん、ほんじつは」
ついでに一席ぶとうとしたときだった。
「あいたたた……」
花嫁が腹を抱え、座蒲団の上でのけぞった。
おかみさんたちが花嫁を取り囲んだ。
産気づいた、産気づいた、産婆を呼べ、とさわいだ。
祝言の席に産婆が駆けつけた。
出席者は表に出、生まれる子をまった。
口にはしなかったが、みんなは、どんな子が生まれるのかと気もそぞろだった。
やがて、閉め切られた障子戸の内側から『おぎゃあ』と呱々の声が湧いた。
擬古地ない命の宣言だった。
みんながいっせいに障子の破れ目に顔をつけた。
トラとブチの二匹は、お高の家の階段に座り、すべてを眺めていた。
《盥の産湯に赤ん坊が漬かってるよ》
《どう見ても、ただの赤ん坊だ。立派な男の子だぜ》
《それに、かわいい》
赤ん坊を目の当たりにした牝のブチは、本気でにこにこしてしまった。
じつは、牝猫のばあいの子育て本能は半端ではなかった。
子供が成長するまでの一ヶ月半ばかり、痩せ衰え、ふらふらになりながらも必死に子猫を育てようとする。
その間、父親はどうしているのかというと、なにもしていない。
知らん顔である。メスだけで孤軍奮闘するのだ。
この伝統は、猫が人間に係わり合ってからの一万年間、ずっと変わらない。
猫たちの執念ともいえる、沈黙の鉄則なのだ。
「産婆さん」
小さな声でお高が訊ねた。
「ちゃんと足はありますか?」
事情を知らない産婆は妙な顔をした。
「ありますよ。安心しなさいな」
お高は本当に幽霊の子だと思っているのだ。
祝いの式は、足のある赤ん坊が産まれ、おひらきになった。
その夜のうち、隣町の口入れ屋から女中がきた。
なりたての亭主、弥平の手配だった。
5
さわぎの一夜が明けた。
お高と赤ん坊が、二階で眠っていた。
トラとブチは窓ぎわに座り、お高を見守っていた。
幽霊の父親がようすをを見にくる気配はなかった。
階段を登ってきたのは弥平だった。
足音がはずんでいた。
「弥平さん」
お高が掻巻布団をずらし、上半身をあげようとした。
「いいよ、寝ていな」
弥平が、上からそっと布団を押さえる。
「いろいろ、もうし訳ありません」
お高が布団に肩を入れなおす。
「いいんだよ。そんなこと気にすんな」
弥平が枕もとに座る。
前かがみに二度、三度と膝をさすり、赤ん坊をのぞく。
「赤ちゃん、半蔵に似てるけどいいんだね、弥平さん」
半蔵はお高のもと亭主である。
もちろん、似ているかどうかはまだわからない。
「かまわねえよ、おめえが生んだ子じゃねえか」
弥平は、お高の言葉など聞いていなかったかのように頬を赤らめ、 肉づきのいい顔に笑みを浮かべる。
「じゃあ、おいらは仕事に戻るからな」
弥平は膝をくずし、階段をおりていった。
しばらくすると表戸を開け、また階段を登ってくる。
赤ん坊とお高をのぞくと、じゃあとまた仕事に戻る。
一階の座敷で女中がおむつを縫っていた。
昨夜、にわかに雇われた中年の女中だ。
お高は、時間がくると布団に座った。
赤ん坊を抱え、片方の乳房をだす。
まだ怪しげな手つきだったが、心得ていたかのごとく乳首を赤ん坊の口にふくませる。
もう完全な母親だった。
くちゅくちゅっと、赤ん坊がお乳を吸う音。
ふいにお高が顔をあげ、胸から赤ん坊をはなした。
赤ん坊のやわらかな唇が、ぷちゅんと音をたて、乳首からはずれた。
お高が赤ん坊を布団の上に置き、立ちあがった。
「この子。あたしの顔じいっと見てるけど……そこにいる仲良しの赤茶のトラ猫とブチ猫や、おまえたちもそう思わないかい?」
窓ぎわにしゃがむ二匹に語りかけた。
お高の目が、瞳に灯をともすように見開かれる。
そして頬に両手をあて、畳の上をあとずさりしだした。
「あたしの顔、そんな目で見ないでおくれよう」
窓とは反対側の壁にぴたと背をつけ、片袖で顔を半分隠した。
トラは腰をあげ、畳をあゆみ、なにげなく赤ん坊の顔をのぞいてみた。
視線が、壁ぎわの母親のほうにむけられているような気がした。
だが単にそうしているだけで、意識的とは思えなかった。
「まだ目も見えないはずなのに、なんであたしを……となりの弥平さんとの祝言を怒っているのかい? でも当面の生活費はあっても、この先あたしだって、どうやって一人で……半蔵……そんな恨めしそうな顔なんかしないでおくれ」
お高が壁づたいに移動する。
乳の匂いでも追っているのか、赤ん坊の目も母親とともに動く。
お高は階段の降り口まで移動した。
そして足音を殺し、下に消えた。
「どうしたんですか? おかみさん」
階下で女中の声がした。
「ちょいと、水をいっぱい」
お高が答える
。
こここ、こんこん、こここ……。
となりの家から、はずんだ鑿の音が聞こえた。
トラとブチの目に、鑿に小槌を当て、前歯で下唇を噛み、神経を集中させている弥平の顔が浮んだ。
「トラとブチ。ご飯だよー。おーい、赤毛さん、トラ、ブチ」
表で八重さんが呼んでいた。
6
「旦那様。奥さんと赤ちゃん、こちらにお見えでしょうか?」
お高の家の女中が、土間に立っていた。
「来てねえけど、どうした?」
弥平が鑿をもつ手をとめ、顔をあげた。
が、一瞬ののち、鑿を置いて立ち上がった。
「奥さんと赤ちゃん、どこかに行ってしまったんです」
女中の声を聞きながら、もう土間から表に飛びだしていた。
トラとブチがあとを追う。
弥平が木戸口のほうに駆けていった。
「番太郎さん、お、お高を見なかったかい?」
木戸番が木戸口の長椅子に座り、煙管を喫かしていた。
「見たよ」
顎に白い髭のある木戸番のじいさんが、だからどうした、という顔をした。
「赤ん坊も一緒だったか?」
作品名:化け猫地蔵堂 1巻 3話 子を産む女 作家名:いつか京