化け猫地蔵堂 1巻 3話 子を産む女
弥平は返事をしない。仕事台の下から、両手で掬うように小さな布包を取りだした。
膝で畳を歩き、上がり框の相模屋のまえに布包を置いた。
布包を左右に開けると、小さな櫛が三つでてきた。
仲よく並んでいる。
「できてる、できてる」
相模屋は声をあげた。
小さな櫛を手にとり、順々にひとつずつ、目の高さにかざした。
「うん、こりゃあいい」
それぞれに大小の赤い椿が咲き、青い葉が三つ付いている。
「茜(あかね)のお局(おつぼね)様がこの櫛を髪に差し、将軍様のまえに出ていくところなんか、弥平さん、見てみたいでしょう?」
嬉しそうにしゃべり、二度、三度と櫛をかざす。
その目が部屋の壁のほうに動く。
「どうして譲ってくれないんですか。あれだけの物をお女中たちに見せたら、きっと大喜びですよ」
弥平はふっくらした白い頬を左右にふる。
「でも弥平さんがその気になったとき、あれは全部わたしの物ですからね。忘れないでくださいね」
相模屋さんはこのまえの分と一緒だ、と何枚かのお金を懐からだした。
楕円形で黄色い。小判である。
弥平は腕の立つ職人だったのだ。
客が帰ると、弥平はまた仕事をはじめた。
ときどき、気づいたように隣家に耳をすます。
だが、静けさが平穏の証ででもあるかのように、あいかわらず物音ひとつしない。
遠く鐘の音が、午後八時(宵の五つ)を告げた。
弥平がうんとうなずく。
「さあて、ちょいと休むか」
弥平は手で畳の上の木屑を払い、丹前をひきよせ、ごろんと横になった。
よほど根を詰めて仕事をしていたのか、すぐ鼾をかきだした。
隣はしんとしたままである。
弥平の家の初日だ。
トラとブチはあちこちをうろつかず、おとなしくしていた。
二匹は壁ぎわでからだを寄せ合った。
夜が明けたら長屋の井戸端に行き、おかみさんたちのお喋りを聞くつもりだった。
3
弥平はまだ気持ちよさそうに眠っていた。
右奥の階段を伝い、さわやかな空気が流れていた。
二匹は奥の階段を登った。
二階は六畳だった。
障子窓が半分開き、畳に朝の光が射していた。
窓から外に出てみた。
黒瓦の屋根がひろがっていた。
隣家は屋根つづきである。
トラとブチは、細めに開いた隣家の窓に歩み寄った。
なかをのぞくと、女が仰向けに眠っていた。
掻巻(かいまき)布団の腹のあたりがふくらんでいる。
《幽霊の赤ちゃんだよ》
《でも亭主はいないみたいだな》
トラが左右に目を動かす。布団はひとつだった。
女の枕もとには針坊主が置いてあった。
畳まれているのは縫いかけの赤い着物だ。
赤ん坊のもののようだった。
なんだかゆったりした雰囲気で、幸せそうだった。
長屋のみんながどう噂するのか、いよいよ興味が湧いた。
《下の部屋をのぞいてくるね》
ブチが、開いた窓からするりと体を忍ばせる。
だが、すぐ忍び足でに戻った。
《やっぱりだれもいなかった。一人で住んでいるみたいだよ》
《井戸に行ってみようか》
どこの長屋も、井戸は路地の奥にあった。
棟つづきの屋根伝いに、二匹で奥にむかった。
屋根がとぎれ、下が空き地になっていた。
井戸は空き地の真ん中にあった。
おかみさんたちが水を汲み、米を研いでいた。
二匹は、長屋の屋根から井戸の屋根の上に跳んだ。
おかみさんたちはお喋りに夢中だった。
「そういえばお高だけどさ。薄気味悪いったらありゃしないよ、もう」
さっそく話が変わった。
「亭主が化けて出てきて子供ができただなんて、真剣な顔で言うんだものね」
「幽霊の子供だって、きかないんだからね」
やはりみんなは、気になって仕方がなかったのだ。
噂の主はお高という名だった。
「だれがなんて言っても、産むって頑張るんだからね」
「どうやって幽霊とあれしたんだか」
だれも笑ったりはしなかった。
「亭主もなしに子供産んで、これから先、どうする気なんだろうね」
「幽霊の亭主が稼いでくるっていうのかい」
「ほら」
「来たよ」
おかみさんたちがわざと腰を揺らし、しゃがんだ姿勢のまま米を研ぎはじめた。
お高は寝起きの顔だった。髪は乱れ、眼も腫れぼったかった。
それでも充分長屋の白鷺に見えた。
「またあたしのこと、話してたんでしょ」
お高はせりだしたお腹を揺すり、井戸の釣瓶に手をかけた。噂なんか意にも介さぬようすだ。
「ああ、話してたよ」
おかみさんたちも、言い返す。
「おまえさんの話はおもしろいからね」
「幽霊をばかにしてさ。あとで祟られても知らないからね」
お高は水を汲み、桶に移す。
ざばざば、と顔を洗う。
その隙におかみさんたちが腰をあげた。
最後の一人も米の入った笊を抱え、逃げるように去った。
お高もさっと用を済ませ、帰っていく。
別のおかみさんたちがやってくる。
「だけど、あのまま放っておいていいんだろうかねえ」
すぐお高の話になった。
お高は二年半ほどまえ、隼長屋にきた。
半蔵という男と一緒だった。
二人は駆け落ちの仲だった。
長屋にきて一年近くたったとき、通りで半蔵が暴れ馬に蹴られ、重症を負った。
お高は必死に看病したが、二ヶ月後に亡くなった。
「どこかに男でもいたのさ」
「あの色気だものね」
「男が黙っちゃいないよ」
「でもお高は、あたしにこう説明しだんだよ」
お高の口ぶりを真似る。
「『半蔵がお寺に埋葬された夜だった。化けて出てきてお腹に子が宿ったのさ。ほんとうだよ。わたしはあの人にちゃんと抱かれたんだからさ』ってまじめな顔なんだよ」
「夜這いの相手と間違えたんじゃないの。しょうがないねえ」
「幽霊に抱かれたなんて、よく言うよ。人恋しくてあれがしたくって、夢中でどこかの夜這の男にしがみついたんじゃないの」
「このさい、隣の弥平さんとくっつけちゃったらどうだろう。もしかしたらうまくいくんじゃないかね」
一人が提案した。
「櫛を造って絵を彫り、色を付けてるだけが取り得の一人もんだしね」
ただの櫛職人ではないことを、おかみさんたちは知らないのだ。
「白豚の弥平さんなら、お高があんなふうだからって言えば、もしかしたら承知してくれるかもしれないよ」
「そうだよ、弥平もなんだか寂しそうにしているしさ」
「その話、案外いいかもしれないよ」
いいと思う、いい、いい、とみんなが囃すように賛成した。
異を唱える者はいなかった。
女房衆が去り、男衆がやってきた。
「大家さん」
一人が、年配の男に声をかけた。
「お高のやつ、一人で産む気らしいんですが、うちの女房が弥平に話をしてみたらどうだろうかって言ってやす。弥平は独り者だし、お高の器量も悪くはない。大家さんが口をきいてくれれば、承知するんじゃないかって」
「いくらなんでも、そりゃねえですぜ」
横から若い男が口をだした。
「相手は幽霊の子を身籠もっているんですぜ。幽霊の子じゃなきゃ、どっかの色男に違いねえじゃねえですか。弥平さんがかわいそうだ」
作品名:化け猫地蔵堂 1巻 3話 子を産む女 作家名:いつか京