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生きてはいけない存在

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 この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年6月時点のものです。とにかく、このお話は、すべてがフィクションです。疑わしいことも含んでいますが、それをウソか本当かというのを考えるのは、読者の自由となります。

                 力の抑止

 あれは今から十数年前のことだった。今ではかなり珍しくなった踏切による人身事故であったが、その事故が起こった時は、昼下がりの時間帯で、まだ、学校の終業時間になることのない、午後の時間で、人通りも、電車の本数も少ない時間だった。
 しかも、その踏切は、
「なかなか高架にならない」
 というような場所ではなく、線路を挟んで、向こうとこっちでは、
「景色がまったく違う」
 というようなところであった。
 こちらから、踏切に向かって歩いていくと、途中から向こうがみえるようになっている。こっち側は、マンションも結構できていて、踏切近くまで来ないと、そこに踏切があることを知っている人以外は、
「まさか踏切があるなんて」
 というようなところであった。
 そこから、少しでも、都会の方に向かうと、数十メートルくらい行けば、駅があるのだった。
 その駅は、
「無人駅じゃないか?」
 といってもいいくらいのところで、電車に乗っている時であれば、左右を意識すれば、
「全然光景が違っている」
 ということくらい分かるというものだ。
 ただし、見ていると、この路線を利用する客のほとんどは、いつも同じところにいるようだ。
 座っている人は、空いているところに座るので、若干ずれるだろうが、立っている人は、いつも同じ場所のいつも、同じ方向である。
 つまりは、
「ほとんど、場所を変えるということはない」
 といってもいい。
 だから、電車に乗っていると、同じ方向しか見ていないので、マンションの建ち並んでいる方を見ている人は、
「まだまだ都会だ」
 と思っていて、反対側を見ている人は、
「もう、だいぶ田舎に入ってきたな」
 と思うことだろう。
 きっと、降りる駅で、改札までの便利の良さや、
「混まないところ」
 という意味で、自分なりに、
「最高のポジション」
 を持っていることだろう。
 そして、どちらも、
「まさか、反対側が、こちらと全然違っているなどということを知らないことだろう」
 と思えた。
 ただし、それは、
「座ることのない人限定」
 ということになるだろう。
 座ることを前提にしていると、両側を見る機会はどうしてもできてしまう。その時に分かるというものだ。
 中には、
「絶対に座らない」
 ということを決めていり人もいる。
「健康のために座らない」
 あるいは、クラブ活動などで、部活のルールとして。
「座席が空いていても座らない」
 というものがあれば、それに従っていることだろう。
 また、老人の中には、
「まだまだ若い者には負けない」
 という、一種の、
「年寄りの冷や水」
 という人だっているに違いない。
 かと思えば、別にルールがあるわけでもないし、ただ、立っている方がいいと思っている人もいる。
 女子高生が立っているのは、そういう理由からなのかも知れない。
 ただ、最近では、別の理由で立っている人も多い。
 もっといえば、そっちの方がよほど、立っていることに対しての理由付けになるというものだ。
 というのが、ここ数年で蔓延っている、
「世界的なパンデミック」
 と言われた伝染病である。
 今でこそ、
「風邪と同じだ」
 などと、バカな政府が言っているが、実際には、
「いくら政府が、マスクを外してもいい」
 ということで、マスクをしていない人が増えたといっても、実際には、まあまだ電車の中ではマスクをしている人が多い。
 それだけ、国民が、
「政府を信頼していない」
 ということなのだ。

「マスクを外してもいい」
 あるいは、
「普通の風邪と変わらない」
 などといっているが、その理由はちょっと考えれば分かるというものだ。
 それは、
「少子化問題」
 を争っている時もそうだった。
「第三子までに比べて。第三子以降の養育費を倍にする」
 ということを、掲げて、いかにも、
「異世界の少子化対策」
 などといって、いかにも、
「自分たちが、しっかりやっています」
 アピールをしているが、騙されてはいけないのだ。
 あれには、但し書きがあって、
「第一子が高校を卒業した場合、第一子を第一子から外して、下から繰り上げるということになる」
 というのだ。
 とういうことかというと、
「元々の第二子が、第一子ということになり、第三子で、本当は貰えるはずの子ともを第二子と計算するのだ」
 ということである。
 するとどうなるかというと、
「かなりの数の第三子までいる家庭が、倍を貰えない」
 ということになるのだ。
 最初は政府も、
「第二子からにしようか?」
 と言っていたようだが、
「そんな財源がどこにあるのか?」
 ということで、すぐに却下になったという。
 そもそも、
「戦争をしている国に、無償で金を送る」
 などということをしているのだ。
 それが、どれほどまずいことになるというのか、分かっているのだろうか?
 日本国内で、パンデックで今にも死のうとしている人や、子育てができずに、育児放棄をしたりしている人がいる日本人を放っておいて、
「自分たちが外国にいい顔をしたい」
 というだけで、日本人の犠牲を踏み台にして、いいというのだろうか?
 何と言っても、少子化問題だって、
「第三子がいる家庭」
 というのが。どれだけ少ないか?
 ということなのに、さらに、そこから変な条件を設けて、さらにもらえる人を制限しようというのだから、
「支援」
 などという言葉が聞いてあきれるというものだ。
「世界的なパンデミック」
 においての、
「ワクチン問題」
 である。
 国民の多くが、
「本当に大丈夫なのか?」
 ということで、注射を躊躇している時、
「何かあったら、政府が責任を持つ」
 といって。打たせておいて、いかにも、
「ワクチンのせいで死んだ」
 ということが分かっているのに、政府は、
「因果関係が見当たらない」
 などといって、渋ってしまい、
「何とか保証しないでいい方向に持って行く」
 ということを考えるのであった。
 そんな政府に、少子化問題など解決できるはずもないというものだ。
 今の政府はある意味分かりやすい。一つのことを徹底しているといえば、その通りだ。
 一言でいえば、
「悪」
作品名:生きてはいけない存在 作家名:森本晃次