化け猫地蔵堂 1巻 2話 熊太郎純情
「奥さんの弥生さんが亡くなってからなんです。弥生さんがすぐそこの松屋っていう飯屋で仕事をしていたとき、熊太郎が惚れて夫婦になったんです。だけど弥生さんが病気になって死んじまってからは、熊太郎は仕事にも行かねえ、子供の面倒も見ねえ、いつまでも悔やんで酒呑んで暴れやがって……美人でいい奥さんだったものなあ、弥生さんて。生きていたらなあ」
大工の小吉は尖った顎をあげ、溜息をついた。
弥生さんに惚れていたみたいな口ぶりだった。
「わたしは医者だよ。人の命を預かってんだ。薬を飲ませるのを止める訳にはいかないんだよ」
良庵が告げる。
大工の小吉が、悲しそうな眼差しで良庵を見かえす。
良庵は、薬の入った碗の縁を熊太郎の口に添え、親指と人指し指でこじ開けた。
「小吉さんとやら、すまないがね、薬を飲ませたら熊太郎さんを背中におぶい、からだを揺すってみてくれないかね。薬を全身に回したいんだ」
言いながら良庵が熊太郎の口腔に薬を流しこんだ。
「みなさん、こっちに来てください。それで全員で熊太郎さんを上がり框まで運んでください。さあさあ」
全員がどやどやと動きだした。
「小吉さんはそこの土間にしゃがんで背をむけて、うん、それでいい」
おかみさんたちが、寄ってたかって熊太郎をひきずりはじめた。
小吉が土間で背をむけ、言われたとおりにしゃがんでいる。
おかみさんたちの手で、小吉の背中に熊太郎を被せられた。
さすがは大工職人。からだは細いが、見かけよりは頑丈だ。
うんしょっと呻き、ぐいと立ち上がる。
小吉が腰と膝を使い、熊太郎を上下左右に揺すった。
熊太郎の手足がぶらぶら踊った。
「あ、あぶねえ」
小吉がつとん、とつまずき、土間から路地によろけでた。
足をもつれさせ、そのまま路地に腹這った。
ちょうど手間仕事を終え、ほかの大工たちが戻ったところだった。
「や、熊太郎のやろう」
「ここんとこ静かにしてると思ったら」
「また小吉にからんでやがる」
足音をたて、駆けよった。
「やめなよみんな」
「ちがう、ちがう」
「熊太郎の容体がおかしいんだよ」
おかみさんたちがとめた。
小吉が、熊太郎を横に転がすように下から這い出る。
「容体がおかしいだと?」
「熊太郎にも容体があんのか?」
「そういやなんだか、ぐったりしているじゃねえか」
「たしかに変だ」
「肝を抜かれた熊みたいだぜ」
「おいみんな。なんだか知らねけど、熊太郎のやつを家んなかに運んで寝かせてやれ」
頭らしき半纏姿の男が命じた。
熊太郎は、再びみんなに家に運びこまれた。
一同は熊太郎を板の間に寝かせ、やれやれと一息ついた。
小吉があたりを見まわした。
「良庵さんと奥さんがいねえぜ?」
おかみさんたちも首を左右に動かす。
あかねとこいとも部屋を見わたした。
3
幼い姉妹の言うとおり、天神様に呼びだされた本人は、まだ天のお裁き所に着いていないのである。
《あの子たち可哀そうだよ。とちゅうで熊太郎をつかまえ、なんとか助けてやろうよ》
三毛の提案どおり、トラ猫は小鬼の姿で虎の皮のパンツをはき、岩から岩へと跳ねた。
険しい山道だった。
くねった断崖の路を、槍を担いだ小鬼たちが男たちを連れている。
男たちは三尸の虫に告発されたのである。みんな悪い奴だと、言えないのが人間社会に浸って生きてきあた化け猫の正直な心境だった。
溶岩でできた歪な形の門柱が立ち、なかに石の館があった。
館の岩の濡れ縁に、二匹の大鬼がいた。赤鬼と青鬼である。
らんらん眼(まなこ)で、濡れ縁の下にひざまずく一人の男を尋問中だった。
「名前はなんであるか? どこから来たのか?」
「松五郎です。江戸からきました」
若い町人が、二匹の大鬼を下から見あげる。
なぜ自分が小鬼にひったてられ、そこにいるのかが納得できない顔つきだ。
「江戸のどこであるか」
「日本橋です。蜘蛛を踏んだという罪なんです」
「ええい、悪いやつだ」
二匹の鬼は、長く爪の伸びた足をばんと踏んだ。
らんらん眼を剥きだす。
松五郎は、ぶるんと顎を震わせ、うくんと空唾を飲んだ。
「そんな……蜘蛛を踏んだくらいで、いちいち三尸の虫に告発されたんじゃ、命がいくつあったっても足りないじゃないですか」
松五郎は二度三度まばたいたあと、思いだしたように反論した。
「だまれ、だまれい」
「ならば、なぜ庚申の夜に眠ったか」
赤鬼と青鬼は肩を怒らせる。
いまにも掴みかからんばかりだ。
「仕事で疲れ、ついうとうとしてしまったんです。どうかご勘弁を」
思わぬ指摘をされた松五郎は、はっとなった。両肘をあげ、額のまえで手を合わせた。
「罪は罪だ」
「お裁きは天神様がおこなう。それい、こやつを引っ立てい」
背後にひかえていた小鬼たちが、松五郎にとりすがった。
松五郎は小鬼たちに槍で小突かれながら、館のまえを去っていった。
大鬼たちはそこで、通行人の名前、出身地、罪状を記録している。
「赤鬼青鬼さん。熊太郎という男がここを通りませんでしたでしょうか? 江戸の猿楽町からきた男なんですけど」
赤鬼と青鬼は、濡れ縁に胡座をかいていた。
「なんだ、おめえは?」
赤鬼はわきの酒壺に手を伸ばした。
「三尸の虫の告発で、天神様が江戸の猿楽町の熊太郎という男を呼んだのですが、いまだお裁き所に姿を見せないのです。そこでこのたびは、天神様じきじきのご用命で本人を探しにまいりました」
それらしく告げる。
高い山である。瘤状の黒雲が頭上すれすれを飛んでいく。
青鬼が腰の帳面をはずし、長く尖った爪でめくった。
「江戸の、猿楽町の、熊太郎のと……おっと、あった。昨日の夜だ」
「ありがとうございます」
トラ猫の小鬼は頭をさげた。
お裁所に着くまえに、なんとかするのだ。
トラ猫の小鬼は先を急いだ。
ごろごろの岩のあいだの路を駆けぬける。
岩の上で一人の男が、鬼たちに囲まれていた。
小鬼と大鬼の出動だった。
大鬼が鉄棒をふりあげる。
「次郎吉、いまさらしらをきっても、おそい」
「おれはよ、人助けのために盗みをしたんだって言ってるだろ。人を助けちゃいけないのか?」
縄でからめ捕られながら、次郎吉は身をもがいて訴える。
「そんなふうに人助けのふりをし、悪事を働くおまえみたいなやつがいちばんたちが悪い。くらえ」
大鬼の横殴りの鉄棒が後頭部に当たる。
次郎吉の目玉が二つ、びゅんと飛びだす。
それでも次郎吉は両手をもがき、人助けだ、人助けだ、と暴れた。
騒動の岩の下の坂路を、一人の男がやてきた。
背中を丸め、はずんだ足どりだ。
「どうしたんですか?」
小鬼姿のトラ猫が聞いた。
男は鑑札を見せた。
「無実の判決です」
にこにこしていた。
「この先で、熊太郎という名の乱暴そうな大男を見かけなかったでしょうか?」
男は懐に鑑札をしまいながら、首をかしげた。
作品名:化け猫地蔵堂 1巻 2話 熊太郎純情 作家名:いつか京