Grail
メガネはリュックサックの紐を片手で支えながら、言った。島木は目印のように聳える岩場の陰からようやく立ち上がると、斜面をゆっくりと下りて家の前に立つメガネと同じ目線になった。その右手にサプレッサーが取り付けられたグロック19が握られていることに気づいて、メガネは苦笑いを浮かべた。
「用心深いですね」
「当たり前だろ」
島木は自分が六十七歳であることを急に思い出したように、肩で一度息をしてからメガネに言った。
「お前、何歳になった?」
「四十四です」
「もっと長生きしたいなら、ハイキングみたいにまっすぐ来るもんじゃないぞ。岩場から丸見えだった」
島木が言うと、メガネは気まずそうに頭を小さく下げた。しばらく沈黙が流れ、島木は苦笑いを浮かべた。十七年振りの再会だし、その姿を見る限り立派にやっているようだが、どうしても話し方が『先生』になってしまう。名前が付く前にこちらが組織を抜けたから、その関係性は余計にそこで凍ったままになっていた。
「メガネでいいか?」
「はい」
メガネが短く答えるのと同時に、島木は家を指差した。
「まあ、入れよ。用事があって来たんだろ?」
自分以外の人間が外の空気を纏って入ってくるなんてことは、考えてもいなかった。島木がダイニングテーブルに案内したとき、まだ右手にグロック19を持っていることに気づいたメガネは苦笑いを浮かべた。
「人なんて、来ないでしょう?」
島木は神経質に笑うと、テーブルの上にグロック19を置いた。
「十七年で、お前が初めての来客だ。動物は家賃も払わずに好き勝手に出入りするけどな。昨日だって、林の方で物音がしてた」
「季節的に、イノシシですか? それなら武装しとかないと危ないですね」
メガネはファスナーを大きく開いて、リュックサックからノートパソコンを取り出した。島木は、ペットボトルの紅茶を冷蔵庫から出してグラス二つに均等に注ぐと、ダイニングテーブルの椅子に腰かけた。真向かいに座ったメガネは起動が完了したノートパソコンの画面をくるりと返して、島木に見せた。
「用事はこれです」
島木は、懐かしい画面を見つめた。報酬は前金と完了確認後。パソコン音痴でも作れるような簡素な造りだが、これで人の命が消し飛ぶ。島木は言った。
「おれが標的なのか」
「そうです。それを伝えに来ました」
メガネはそう言うと、島木に合わせて紅茶をひと口飲んだ。
「つまり、おれが岩場で張っていたのは正解だったんだな。お前、ここに来るまで尾行は?」
「大丈夫かと。上がってきたように見えたかもしれませんが、反対側からひと晩かけて、山を越えて来てます」
メガネが淡々と話す様子に、島木は思わず笑顔を浮かべた。山の中を三十キロ歩いてきたということになる。それでこれだけ顔つきが鋭いなら、大したものだ。
「依頼者は、知ってるやつか?」
「フリーランスも含めているようなので、一見さんかもしれませんね」
メガネが言い、島木はその理屈に納得してうなずいた。殺しは知らない人間同士で組むのが基本だが、それは一度限りの関係のときで、固定客は顔なじみを好む。そういう人間はフリーランスには仕事を振らない。
「今回は脱出じゃなくて、籠城ですかね」
メガネが言うと、島木は口角を上げた。
「だとしたら、タイミングがいいな」
先生と生徒。その関係だから絶対に言わずにいたことだが。
メガネがここまで長生きするとは、思っていなかった
― 十七年前 ―
「この調子だと、お前ずっとメガネのままだぞ」
島木はレガシィのトランクの中で体をくの字に折った死体を見ながら、メガネに言った。何とかなったが、止めなかったらタイヤの山を背にしてその頭をグロック17で吹き飛ばすところだった。後ろに何があるか気にすることなく、引き金を引く。そう思っていたから事前に弾をダミーカートリッジに入れ換えておいたが、正解だった。メガネはそこに納得がいかない様子で、引き金を引いても空振りしたことがずっと引っ掛かっているようだった。
「ダミーの弾って、見分けがつかないものなんですね」
「一発一発に、ダミーって書いてあるわけじゃないからな」
島木が言うと、メガネは肩をすくめた。
「言うことを聞かせるのも、難しかったです」
メガネが言い、島木はトランクを閉めると首を横に振った。
「返り血の掃除が大変だからトランクに入れって、それで入る奴がいると思うか? お前には自分の都合しかないのかよ。相手はこれから死ぬんだぞ」
それでも、周囲に目を配っているのは『成長』している証拠だ。島木は助手席に乗り込み、メガネが運転席に座ってエンジンをかけるのと同時に言った。
「ここからの段取りは?」
「鉢巻へこれを持って行きます。車を入れ換えたらマルキューのところへ行きます」
「よし、それを手と足に伝えろ」
メガネの運転はハイヤーのように静かだ。今乗っているレガシィRSKのような速い車を用意されると、大抵の人間は飛ばしたがるし、少なくともアクセルを深めに踏み込んで、どんな加速をするか確かめるぐらいのことはする。しかし、メガネにはそれがない。
「お前、車に興味はないのか?」
島木が訊くと、メガネは首を傾げた。
「ありますが、今は仕事中なので」
「興味を抑えてるのか? それは感心だな」
島木はそう言いながら、内心でも同じようにメガネのことを評価した。興味がなくてハイヤーのような運転をしているなら、そこに成長の余地はない。感情を殺せて初めて一人前だ。
「タバコは吸うか?」
島木はもう少し踏み込む気になって、続けた。メガネはバイパスの走行車線を制限速度を保ちながら、首を横に振った。
「あまり吸いませんが、マルキューは吸うんですか?」
「ヘビースモーカーだ」
「でしたら、自分も吸います」
メガネが淡々と答え、島木は同じ景色を見つめた。そこから黄色のインプレッサに入れ替えて初代マルキューの家に辿り着くまでの間、考えていることはひとつだけで、それはランニングマシーンのように流れるこの景色から、どうやったら抜け出せるかということだった。人付き合いをベースに続けてきた以上、少しずつ輪が狭まっていくのは分かりきっていた。問題は、その輪が自分の首に食い込む前に抜け出さなければならないということ。ずっと夢物語だと思っていたが、光が見えたのは半年前のことだ。私有地のさらに奥に建つ山小屋。籠城することもできるし、人知れず町に下りることもできる。メガネに引退を仄めかしたのは先月の話で、それは軽率に噂を広める人間かどうかを確かめるためだったが、どれだけ待っても噂は全く広まることがなく、口の堅さについては文句のつけどころがなかった。
丸久の家は田んぼを何個も介してぽつんと建つ一軒家で、工藤は『一家惨殺ハウス』と呼んでからかう。隣人を避けすぎて、何かあったときに通報もしてもらえない。島木は遠くに停まるステージアが動き出すのを見て、メガネに言った。
「見えるか?」
「垂水さんですね」