ゆずは
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年5月時点のものです。いつものことですが、似たような事件があっても、それはあくまでも、フィクションでしかありません、ただ、フィクションに対しての意見は、国民の総意に近いと思っています。このお話は、真実っぽい過去の話はあっても、あくまでも、登場する国家、政府、関係者、組織は架空のお話になります。国家や省庁で、どこかで聞いたようなところも出てきますが、あくまでもフィクションです。
予知夢と正夢
板倉政景は、最近になって、新しい彼女ができたが、元カノのことが忘れられないのか、最近見る夢のほとんどは、元カノの夢であった。
楽しかった夢も、辛い夢も見るのだが、楽しかった夢は、
「確かに、そういうこともあった」
と思い出せるものだったが、辛い夢の記憶というのは、
「本当にそんなことあったんだろうか?」
というものであった。
小学生時代から、よく夢を見る方だったが、
「夢というものは、覚えているのは、怖い夢ばかりなんだよな」
と思うようになっていて。
「まさにその通りだ」
と思うのが、今の考え方だといえるのだった。
小学生の頃には、
「今と比べて、どっちの方が、よく夢を見ただろうか?」
と思うのだったが、子供の頃の記憶が定かではないだけに、一概な比較はできなかったのだ。
そして、子供の頃の記憶というのは、
「曖昧なものだ」
というのが、自分の中で、定着している」
と思っているので、覚えているとしても、その賞味期限は、一日どころか数時間だったのだ。
ただ、本当に怖い夢というのは、いつになっても忘れることはない。
中には今になっても、覚えている夢もあるくらいで、それ以外に覚えている夢というのは、
「ずっと覚えていたのだが、いつの間にか忘れてしまった夢だったような気がする」
ということだったのだ。
もちろん、そのすべてが、
「怖い夢」
であり、どんな怖い夢だったのかというと、その時々で違っていたが、その中でも一番自分で怖いと思っているのが、
「もう一人の自分を見る」
という夢だった。
一種の、
「ドッペルゲンガー」
というものであるが、その正体はハッキリと分かっていない。
ただ、ドッペルゲンガーというものは、
「それを見ると、見られた本人は、近い将来に死を迎える」
と言われていて、
「有名人が見た」
などということで、結構、信憑性のある話となっている。
ドッペルゲンガーを見たことで、さまざまな死に方をした人が、世界中にいる。
リンカーン大統領であったり、日本でいえば、有名なところでは、
「芥川龍之介」
などがそうであった。
特に芥川龍之介の場合のエピソードは、凄まじいものだった。
「ある日、編集者が訪れると、そこに、原稿が置いてあって、それを見ようとすると、龍之介が、急に怒り出し、その原稿を、くしゃくしゃにして捨てた」
ということであった。
しかし、翌日には龍之介がなくなっていて、実際に、くしゃくしゃにして捨てた原稿は、きれいな状態で、机の上に置かれていた」
ということであった。
つまり、編集者が見たのは、
「龍之介のドッペルゲンガーではないか?」
ということである。
ドッペルゲンガーというのは、
「世の中に三人はいる」
と言われる、
「似た人」
ということではなく、
「もう一人の自分」
つまり、
「この世で、同一次元、同一時間において、もう一人の自分が存在している」
という考え方であった。
「どうして、そんな人間が存在しているのか?」
いや、そもそも、存在しているわけではなく、
「幻覚を見ている」
というだけのことなのか、ハッキリとは分かっていない。
いろいろな説はあるが、実際にどれが信憑性があるのかというのも、
「五十歩百歩」
というところで、いかに考えればいいのかは、学者の人が解明してくれるだろう。
ただ、それでも、興味があるのは間違いないので、自分たちだけでも、曖昧ながらに、勝手な仮説を立てることもある。
板倉も、よく友達と、こういう都市伝説的な話を、よく一緒にしたものだということを思い出していた。
実際には、その頃、
「もう一人の自分」
の夢というのを見たのは、
「ドッペルゲンガー」
というものの存在を知る前だったので、
「先入観から、怖い夢を見た」
というわけでもなかったのだった。
怖い夢を確かに見ていたのだが、その夢は、きっと潜在意識からのものであって、
「夢というのは、潜在意識が見せるもの」
と言われる通りだと思うのだった。
そんな怖い夢を見る時というのは、
「眠りが浅いから見るんだ」
という人がいたが、果たしてそうなのだろうか?
その人がいうには、
「夢というのは、どんなに長い夢を見たとしても、実際に見ていた時間というのは、目が覚める寸前の数秒くらいだ」
というのである。
確かに、目が覚めていくにつれて、夢から覚めるその瞬間には、
「たまに、もう一人の自分が、瞼の裏に映っている」
かのような印象になることがあるというのだった。
それを思い出していると、完全に目が覚めてから、見ていた夢を思い出そうとしても、ハッキリと覚えている夢はない。
「もう一人の自分」
という夢を見たとしても、その記憶は曖昧なものだったのだ。
そんなことを考えていると、
「夢から覚める時間の方が、実際には、夢よりも長いんじゃないか?」
と思うようになっていた。
というのも、
「夢を見ている間は、本当に夢の中での出来事でしかない」
しかし、
「夢から覚めて、そこから目が覚めていくまでの間は、長いトンネルと潜っていっているかのようである」
と思うからであった。
別に夢の中が、
「ある一点からある一点まで、飛び越すかのような、
「ワープ」
というものではなく、本当は長く歪んだ時空の中を彷徨っているかのように思うと、その長いと思っている間も、
「気が付けば、実に短いところを通り過ぎたにすぎない」
ということになっているのではないか?
と感じるのであった。
そんな夢の中を、
「平面の世界」
と考えるのであれば、
「夢から現実の世界に掛けての世界が、
「立体の世界」
つまり、いわゆる今の自分たちの世界だと思っている。
「三次元の世界」
ということになるのだ。
現実のこの世界では、四次元を形成するとされる、
「時間軸」
というものも存在する。
予知夢と正夢
板倉政景は、最近になって、新しい彼女ができたが、元カノのことが忘れられないのか、最近見る夢のほとんどは、元カノの夢であった。
楽しかった夢も、辛い夢も見るのだが、楽しかった夢は、
「確かに、そういうこともあった」
と思い出せるものだったが、辛い夢の記憶というのは、
「本当にそんなことあったんだろうか?」
というものであった。
小学生時代から、よく夢を見る方だったが、
「夢というものは、覚えているのは、怖い夢ばかりなんだよな」
と思うようになっていて。
「まさにその通りだ」
と思うのが、今の考え方だといえるのだった。
小学生の頃には、
「今と比べて、どっちの方が、よく夢を見ただろうか?」
と思うのだったが、子供の頃の記憶が定かではないだけに、一概な比較はできなかったのだ。
そして、子供の頃の記憶というのは、
「曖昧なものだ」
というのが、自分の中で、定着している」
と思っているので、覚えているとしても、その賞味期限は、一日どころか数時間だったのだ。
ただ、本当に怖い夢というのは、いつになっても忘れることはない。
中には今になっても、覚えている夢もあるくらいで、それ以外に覚えている夢というのは、
「ずっと覚えていたのだが、いつの間にか忘れてしまった夢だったような気がする」
ということだったのだ。
もちろん、そのすべてが、
「怖い夢」
であり、どんな怖い夢だったのかというと、その時々で違っていたが、その中でも一番自分で怖いと思っているのが、
「もう一人の自分を見る」
という夢だった。
一種の、
「ドッペルゲンガー」
というものであるが、その正体はハッキリと分かっていない。
ただ、ドッペルゲンガーというものは、
「それを見ると、見られた本人は、近い将来に死を迎える」
と言われていて、
「有名人が見た」
などということで、結構、信憑性のある話となっている。
ドッペルゲンガーを見たことで、さまざまな死に方をした人が、世界中にいる。
リンカーン大統領であったり、日本でいえば、有名なところでは、
「芥川龍之介」
などがそうであった。
特に芥川龍之介の場合のエピソードは、凄まじいものだった。
「ある日、編集者が訪れると、そこに、原稿が置いてあって、それを見ようとすると、龍之介が、急に怒り出し、その原稿を、くしゃくしゃにして捨てた」
ということであった。
しかし、翌日には龍之介がなくなっていて、実際に、くしゃくしゃにして捨てた原稿は、きれいな状態で、机の上に置かれていた」
ということであった。
つまり、編集者が見たのは、
「龍之介のドッペルゲンガーではないか?」
ということである。
ドッペルゲンガーというのは、
「世の中に三人はいる」
と言われる、
「似た人」
ということではなく、
「もう一人の自分」
つまり、
「この世で、同一次元、同一時間において、もう一人の自分が存在している」
という考え方であった。
「どうして、そんな人間が存在しているのか?」
いや、そもそも、存在しているわけではなく、
「幻覚を見ている」
というだけのことなのか、ハッキリとは分かっていない。
いろいろな説はあるが、実際にどれが信憑性があるのかというのも、
「五十歩百歩」
というところで、いかに考えればいいのかは、学者の人が解明してくれるだろう。
ただ、それでも、興味があるのは間違いないので、自分たちだけでも、曖昧ながらに、勝手な仮説を立てることもある。
板倉も、よく友達と、こういう都市伝説的な話を、よく一緒にしたものだということを思い出していた。
実際には、その頃、
「もう一人の自分」
の夢というのを見たのは、
「ドッペルゲンガー」
というものの存在を知る前だったので、
「先入観から、怖い夢を見た」
というわけでもなかったのだった。
怖い夢を確かに見ていたのだが、その夢は、きっと潜在意識からのものであって、
「夢というのは、潜在意識が見せるもの」
と言われる通りだと思うのだった。
そんな怖い夢を見る時というのは、
「眠りが浅いから見るんだ」
という人がいたが、果たしてそうなのだろうか?
その人がいうには、
「夢というのは、どんなに長い夢を見たとしても、実際に見ていた時間というのは、目が覚める寸前の数秒くらいだ」
というのである。
確かに、目が覚めていくにつれて、夢から覚めるその瞬間には、
「たまに、もう一人の自分が、瞼の裏に映っている」
かのような印象になることがあるというのだった。
それを思い出していると、完全に目が覚めてから、見ていた夢を思い出そうとしても、ハッキリと覚えている夢はない。
「もう一人の自分」
という夢を見たとしても、その記憶は曖昧なものだったのだ。
そんなことを考えていると、
「夢から覚める時間の方が、実際には、夢よりも長いんじゃないか?」
と思うようになっていた。
というのも、
「夢を見ている間は、本当に夢の中での出来事でしかない」
しかし、
「夢から覚めて、そこから目が覚めていくまでの間は、長いトンネルと潜っていっているかのようである」
と思うからであった。
別に夢の中が、
「ある一点からある一点まで、飛び越すかのような、
「ワープ」
というものではなく、本当は長く歪んだ時空の中を彷徨っているかのように思うと、その長いと思っている間も、
「気が付けば、実に短いところを通り過ぎたにすぎない」
ということになっているのではないか?
と感じるのであった。
そんな夢の中を、
「平面の世界」
と考えるのであれば、
「夢から現実の世界に掛けての世界が、
「立体の世界」
つまり、いわゆる今の自分たちの世界だと思っている。
「三次元の世界」
ということになるのだ。
現実のこの世界では、四次元を形成するとされる、
「時間軸」
というものも存在する。