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娘と蝶の都市伝説8

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薬屋だったあなたならできる。聖域の薬や外科に関する詳しい話や手術に関する技術は、跡継ぎのためにやさしく書かれているので、山の家の資料を読めば理解できる。もちろん外科の手術には経験が必要だが、旅の途中、上海の知り合いの所に寄り、傷ぐらいは治せるようにちょっとの期間だけ修行すればいい。手紙を書いてあげます。その気ならば、われわれのルートでここから脱出させてあげますよ」

偶然だが、聖域は梅里雪山の麓にあった。
しかし、場所は中国側ではなくチベット側だ。
絶好の話だった。そこに、原始的な秘密の村があるかと聞いてみたが、当地いがいはない、と否定された。

それにもう、そこでどんな漢方薬が記録され、使用されているのかという興味があった。
「返事の前に、自分の娘に会いたいので連絡をとって欲しい。自分のケイタイはどこかに落としてしまった。しかし、ケイタイは探知されて危ないので、町の公衆電話を使って娘に連絡してもらいたい」
秦は萬雷医師に頼んだ。

その夜、白髭の息子の萬雷が、ユキコを連れてきた。
ユキコはマフラーを深く首に巻き、青みのある目をくりくりさせていた。
普段の好みとは違う、かなり高給そうな薄いピンクの薔薇(ばら)の花柄のドレスを着ていた。
娘を守らなければいけない立場なのだが、今の秦にはなにもできない。

「風邪をひいてしまいました。薬を飲んだので、すぐに良くなると思います」
ユキコは、秦が休んでいるベットの手前一メートルのところで足を止めた。
からだから得体の知れないオーラを発し、目が、なにかを挑発しているように輝いた。

「お父さん、なんていうことに……」
萬雷老医師が、父親は二ヶ月で治ると告げると、ユキコはマフラーで隠れた口をすぼめ、ぴょう~と小さく口笛を吹いた。
そして、ベッドの上の秦に話しかけた。
これは二人だけの会話で日本語だった。

「ずっと心配していました。電話で萬雷さんに告げられ、腰が抜けるほどおどろいたけど、治るというので安心しました。ヤンキースタジアムでゲームを終えたとき、からだが浮き浮きして熱くなり、今にも爆発しそうに興奮していました。するとファンのアメリカ人のロバート・モレガンさんが大きな車で迎えにきたのです。

今夜は大騒ぎがしたいと告げたら、テイクアベニューというところ連れていってくれました。超特別階級のお金持ちだけが集まる秘密クラブでした。たった一日で有名になった日本人ピッチャーの登場で、パーティーは一気に盛り上がりました。そしてそこはまさしく、湧きあがっていた衝動を満たすのに十分な場所でした。

だから昨夜は、大勢の人とハグをしました。今日はデビル・ラリーさんとかドリイ・キムジャーさんとか、アメリカの重要人物ばかりではなく、ヨーロッパの偉い人もみんなくるそうです。願ってもいない絶好の機会です。でも、わたしは明日、アメリカから脱出します。

できれば、わたしがずっと眠っていた雲南省のような場所で暮らしたいです。落ち着いたら連絡します。それからお父さん、わたし、突然頭が冴(さ)えて熱くなった理由など、いろいろなことが分かりました。今日は時間がなくて説明できないので残念です。もういかなくてはなりません。あとで会ったときゆっくり話します。大事な用なので、ごめんなさい」

ユキコが部屋からでていこうとしたとき、萬雷老医師が地図を差しだした。
今度の事件と関連し、混乱した話し方や、雲南省などの言葉のようすから、どこかへ雲隠れする場所の相談らしいと判断したのだ。

「行き場所が決まっていないのなら、ここに行ってくれないか。もしかしたら、あなたの父親も後から行くだろう。あなたの怜悧(れいり)そうな瞳を推測していうが、もし旅の途中で機会があったら、多少でもいいですから医学の知識、特に簡単な外科の技術を身につけていってもらいたい」
萬雷老医師はユキコになにも聞かず、そう依頼した。

ユキコが秦のほうを見たので、秦がうなずくとユキコもうなずいた。
秦はユキコに山ほど質問があった。
しかし、急ぎの用があるというので、つぎの機会を待つことにした。
ユキコは地図を持ってでていった。

「あの娘には神が宿っている。まさに聖域にふさわしい娘だ」
萬雷老医師が幼いオランウータンのつぶらな瞳で、だれにいうでもなくつぶやいた。



聖なる神の山はいまも人を寄せつけず、静寂の中心に鎮座(ちんざ)している。
秦周一は東から眺めていた山を、初めて西側からあおいだ。
自治区との境がどこなのかは分からなかったが、雲南省からチベット自治区に入った原生林の森の中だ。

ところどころ露出した岩は苔(こけ)むしている。
目の前を鹿や兎や栗鼠(りす)、そして見たこともないたくさんの動物がよぎった。
幾種類もの野鳥が幹と梢との間をかすめた。

ユキはたった一度、ヤンキースで投げ、世間から消えた。
野球選手ならだれでも憧れるノーヒットノーランのパーフェクトゲームを演じた上、世界一の速球も投げた。
新聞やテレビが大騒ぎをし、彼女を探したが跡形もなく消えた。

マネージャーでエージェントであるダン・池田も、ユキの私生活についてはなにも知らなかった。
密かに寄り添っていた父親の存在がつきとめられたが、その姿も消えた。
龍玉堂(りゅうぎょくどう)を受け継いだ東京の甥は、コメントを求められ、次のように答えた。
「叔父は退職して一、二年は自由の身を満喫するといっていました。私生活については、なにも知りません。家族はなく、独身です」

新たな噂がながれた。
ユキは消える前の二日間、夜の特別パーティーに出席していたという。
場所はニューヨークのハイソサエティーの中心地、テイクアベニュー。
そこには由緒ある伝統的な秘密クラブがあった。

秦周一は新聞や雑誌を拾い読みし、噂の秘密クラブの記事を探り当てた。
ユキがそんな遊びに参加するなんて、とおどろいた。
雑誌によればテイクアベニューの秘密クラブには、アメリカ建国以来の超特権階級の人たちの酒池肉林(しゅちにくりん)の場所があるという。

実際にヨーロッパでは、古代ローマ時代からそんなパーティーが存在していた。
現代ではコカインなどの麻薬が用いられ、淫靡(いんび)さを一層色濃く演出しているのだそうだ。そんな場所になぜユキが、と秦はとまどった
が、これには訳があるはずだとすぐに思いなおした。

秦は、チベット自治区の山の澄んだ空気の中を進んだ。
物欲と権力欲が中心の白人の文化・文明は地球の隅々まで浸透し、伝統や文化を築いて生きるシンプルな社会を次々に破壊した。
だが、それでも地球上には彼らには手の届かない、梅里雪山の裏側のような未開の地域が幾つもあった。

懐には初めてユキコと出会った時のように、聖域までの地図があった。
サウスブロンクスで自分を助けてくれた、英語を話せない中華料理店のコックの父親、萬雷老医師がくれたものだ。
曲がりくねった小路は消え入りそうになりながら、灌木(かんぼく)の斜面を這っていた。

周囲の草むらには、薬草が花を咲かせ、香りを競っていた。
目立ったのは、アザミに似た赤紫の花をつけた木香(もっこう)だ。
作品名:娘と蝶の都市伝説8 作家名:いつか京