娘と蝶の都市伝説8
草原にでたとき、最初のネアンデルタールと遭遇した。
男たちは半円形に並び、槍をかかげ、巨大な野牛と格闘中だった。
野牛は何度も攻撃を受け、首筋に血をしたたらせ、背中には数本の槍が刺っていた。
とどめを刺さんと、男たちがにじり寄った。
そこへ娘が跳びだし、槍をかまえた一人に微笑みかけた。
あたりでは見かけないミス・ユニバース級の美人である。
娘は、いきなり男の肩口に手をかけ、からだを寄せてハグをした。
さらに頬をおしつけ、耳に息を吹きかけた。
「おい、こんなときになんだ……」
男はかまえていた槍を、ぽろり手から落とした。
「おまえ、おれと仲良くなりたいのかよ」
娘はだまってもう一度、からだを寄せてハグをした。
ほかの男たちが、にわかに親くなってハグをかわす二人を、唖然と見守った。
昂(たか)った娘の吐息が、周りの男たちの鼻腔(びこう)をくすぐった。
男たちが口々に叫んだ。
「次はおれの番だ」
「はい、みなさん、順番です」
みんなと公平にハグを交わしたあと、娘は告げた。
「わたしは行かなければなりません。さようなら」
もう行っちゃうの、とも言えず、男たちは興奮の眼(まなざし)で娘を見送った。
ウイルスに感染した男たちは、たちまちからだに熱をおびた。
そしてたまらなく、女とハグがしたくなった。
男たちは声をあげ、自分たちの村を目がけ、走りだした。
娘は口笛を吹きながら次の村に向かい、足早に進んだ。
そして娘が訪れた村や洞窟は、どこも大騒ぎになった。
「さあ、次だ。このままどんどん行けばいいんだわ」
ネアンデルタール人の住処を求め、娘はどんどん東に進んだ。
アルプス山脈を越え、大小の山や丘を越えた。
いくつもの村をとおり、いくつもの荒野をとおりすぎた。
夢中で東に向かい、各地のネアンデルタール人たちを狂わせた。
すでにネアンデルタール人は、意外なひろがりを見せていた。
娘は日の昇る方向へ、執(と)りつかれたように進んだ。
「わたしってだれだっけ。どこからきたんだっけ」
ふいに、そんな思いが頭に浮かんだ。
3
気がついたとき、娘はネアンデルタール人のエリアをとっくに抜けていた。
ずいぶん遠くまできたような気がした。
ある夜、眠りついた娘の口から、一匹の蝶が飛びだした。
茸(きのこ)から蝶に姿を変え、遠く南に旅立つ微生物の超粘菌だった。
朝になり、目覚めた娘の頭の中にまた伝達があった。
⦅よくやってくれました。でも、もうすこし時間をください。なにかがあったときのために、少しばかり待機していただきます。また手伝ってもらわなくてはなりません。それまでの間、氷の中で眠ってもらいます。あなたのからだに初めから住んでいた微生物たちが、あなたのからだを守ってくれます。
このまま進んでいき、山の中の氷の洞窟で休んでいてください。ネアンデルタール人だけではなく、残っている一部のホモ・サピエンスのDNAにも欠陥が見つかったのです。いまは活動していませんが、いつ活性化するか分かりません。かなり危険な遺伝子です。
もし問題が起こったときは、南の森からきた蝶の使者と北の雪山にいるあなたが合体し、新たな危機を乗りこえます。そのときその蝶が、欠陥人間を地上から抹殺(まっさつ)する遺伝子をあなたに運びます。それをあなたが確実に人間に移し替えるのです。地球のためだけではありません、奇跡で生まれた宇宙唯一の生命も守るためです⦆
「そういうことであれば、協力します。でもなぜ、わざわざ南と北に別れるんですか?」
娘は質問した。
⦅南のジャングルと北の雪山は、それぞれが地球危機に対応するバロメーターなんです。天体の活動の影響もあると思いますが、人間活動が常識の領域を越え、制御するリーダーが現れないとき、山の氷塊(ひょうかい)が融け、同時にジャングルの奥地への人間の侵入が、取り返しのつかない自然破壊のシグナルになります。そのとき南の超粘菌とあなたが目覚めるのです⦆
「ところで、しばらくは一人ぼっちだけど、目覚めたあと家族に会えると約束しましたよね」
⦅はい、約束しました。約束は守りますよ⦆
娘はそれが三万年後だとは思ってもいなかった。
4
正面に白い大きな山が見えた。
娘は山に向かい、歩いていった。
「おまえはだれだ。どこからきた」
村に入ったとき、異民族の男に聞かれた。
周りには同じ顔つきの人々がたくさんいた。
違う人種にたくさん出会ったが、語り部の血を引く娘は、覚えようという意識が働けば、瞬時に物事を記憶することができた。
どの民族の言葉も、すぐに喋れるようになったのである。
「自分はこのまま、まっすぐに歩いていきます」
「だけどそのまま行っても、この先には雪と氷と山しかないよ」
「いいんです。そこがわたしの行きたい所なんです。もしわたしが山の氷に埋まっても、そっとしておいてくださいね。じゃあ」
娘はまた歩きだした。
ぴょう~、と口笛を吹き、どんどん進んだ。
雪の山は登るにつれ、氷の山になった。
氷の洞窟があった。ここのところの暖かさで、真ん中に空洞ができていた。
異民族の男の一人が跡をつけ、洞窟に入る娘を見届けた。
娘は洞窟の氷の空洞を、這うように奥へ、奥へと進んだ。
すぐに寒波がきて、娘は永遠に氷の洞窟に閉じ込められた。