娘と蝶の都市伝説8
8-2 娘は東へ向う旅にでた
1
ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの混血の娘が森を歩いていた。
軽い足取りだった。
豹の毛皮をまとい、肩から斜めに小さな毛皮の袋を下げている。
袋の中には、長(おさ)の父親から預かった宝飾品が入っていた。
娘は外観をホモ・サピエンスの血を、体力や精神力はネアンデルタール人の血を受け継いでいた。
雪の降る寒い日と太陽が照る暖かい日が交互に続いた。
まだらに雪の積もった山々がまぶしく輝き、ぐるっと平野を囲っている。
娘はそんな時期の森の空気が好きだった。
ところどころ、大地をおおっていた氷や雪が融け、あちこちに土と緑がのぞく。娘はいつも同じ道を散歩した。
娘の行く手に倒木が陽を浴び、陽炎(かげろう)を揺らしていた。
大木が失せた後の空地には、太陽の光りの暖かさにたまりかね、土に眠っていた草花が、欠伸(あくび)をするかのごとく芽を出す。
もしかしたら何かの花が咲いているのでは、と娘は倒木に近づき、横たわる幹の向こうに首をのばした。
そこには花ではなく、一面に薄桃色の小さな茸が生えていた。
一センチくらいの高さで茎は細く、先端には桃色の丸い球がついていた。
その球が、いまにも弾けそうに口を開け、自分の分身を飛ばそうと待ちかまえていたるところだった。
微生物の超粘菌たちである。
娘が薄桃色の鮮やかさに目を見張っていると、小さな丸い頭を揺らし、茸(きのこ)たちがぷつんと弾けた。
無数の胞子(ほうし)の放出である。
娘はかがんだ姿勢のまま、桃色の胞子の霧に包まれた。
口や鼻から胞子が体内に吸い込まれると、娘の頭が、ぽっと熱くなった。
熱は、頭からからだ全体にふわっとひろがった。
「なんだかわくわくして、いい気分」
娘はからだにみなぎる熱いエレルギーを感じ、胸いっぱいに息を吸いこんだ。
そして、閉じた唇から、ぴょう~と息を吹いた。
一面の薄桃色の茸は、自分の役割を終えたかのごとく地中に姿を消し、そこには降り注ぐ太陽が赤茶の土を暖かく照らしているだけだった。
じつはほんの少し前、超粘菌たちは、語りかけてくる微生物集団の声をそこで聞いていた。
⦅人間の娘と一体になれ。娘の体内の微生物の協力をあおぎ、その娘の遺伝子を操作し、ウイルスを発症させろ、ネアンデルタール人の遺伝子を破壊しろ⦆
微生物でもある超粘菌は、植物と動物の機能と性質を備えたスーパー生物だ。
その力を利用し、あるときは水中の生物に、あるときは地上や地中を動きまわり、あるときは空中に飛んだ。
DNAは、宇宙に生まれた元素がうまい具合に混じり合い、そこになんらかの作業が加わり、偶然に生まれた物質である。
DNAには変異という現象があり、働き方いかんによっては自分自身を滅ぼしたりもする。
ネアンデルタール人は、遺伝子の繁殖機能(はんしょくきのう)に突然変異を起こした生き物であり、このまま倍々に増えれば、地球はあっという間、彼らで溢れ、動物や植物を食い尽くす。
動植物の絶滅は地球の死に直結する。
自らの生命の維持とともに、あらゆる地球生命と共存してきた微生物たちは、即座に危機を感じとった。
微生物の仲間である超粘菌は、そのような状況に陥ったとき、最前線に出て働く使命を持っていた。
ネアンデルタール人の遺伝子をクリスパーウイルスによって切断し、死の遺伝子をそこに嵌め込むのである。
クリスパーウイルスは、DNAを切ったり、貼ったり、自由に作り変えることができる特異な技を持っている。
危機を感じたときはすばやく相手の体内に入り込み、確実に感染させ、生体を破壊させなければならない。
クリスパーウイルスは、生き物の創造主が仕組んでおいたにちがいない、地球生命の保身用の安全装置でもあったのだ。
2
木の上で、くるるっと鳥が鳴いた。
娘は反射的に足元の小石を掴んだ。
ばたばたと羽をもがかせ、鳥が落ちてきた。
娘が鳥を焼いて食い終えると、からだじゅうの血が湧きたち、頭が熱くなった。
⦅地球があぶないんだ⦆
突然、話しかけられた。
外からではなく、頭のなかからだった。
⦅ある生き物にDNAの変異があった。その生き物が無限に繁殖すると、地球のすべてが破壊される⦆
娘のとまどいを無視し、話が続いた。
⦅地球が壊れれば、もちろん、あなたの家族も一族も生きてはいられない。いつも通りかかるあなたを、実はずっと観察していました。かわいくて、賢そうで、元気で、だれからも好かれそうで、活発なあたにはぴったりの役目です。なんとしても協力してもらいたいんです。活動にさいしては脳細胞組織を使わせてもらうので、一瞬記憶が途切れます。活動中は家族と離れ離れになります。でもまた一緒に暮らすことができます。どうか、この大宇宙の奇跡の星である緑の地球のため、そしてそこに生きる無数の生物たちのためです。助けてほしいのです。お願いします⦆
優しい呼びかけだった。
「あなたは、だれですか?」
娘は、もちろん問いかけた。
⦅地球……地球の生き物すべての代表です⦆
「地球のすべての生き物?」
⦅最初に地球に生れた微生物たちが、地球の生き物の基本です。微生物の活動をもとに、他の生物が生きているのです。微生物は地球のどこにでもいます。そして、同種の仲間や異種の仲間と特殊な二種類のパルスを使い、他とコンタクトを取ります。
でも微生物が特別に偉いわけではありません。微生物だけではこの地球上の豊かなシステムは維持できません。あらゆる生き物と一緒でなければなりません。共存共栄関係です。地球は太陽の光を浴び、たおやかに生の営みを続けています。土の中では微生物が植物の成長を助け、動物がその植物を食べ、その動物を人間が食べ、それぞれが互いに仲間や家族を養うのです。
しかし、地球や世界を自分のものにし、食物などあらゆるものを独占し、生き物のDNAを自分の利益のためにもてあそぶ者が現れたらどうなりますか。そのものの出現で、今まで培ってきたすべてのシステムが壊れます。システムの破壊は、すべての崩壊につながります。あなたの家族も、どこかに消えてしまいます。とにかく今、地球は思わぬ危機を迎えているのです⦆
「分かりました。地球のため、皆さんのため、家族のためにやります。でも役目がすんだらまた家族と一緒に暮らさせてください」
⦅わかってくれてよかった……⦆
地球の生き物の代表は溜息をついた。
⦅もちろん、家族と暮らす件は約束させていただきます。しばらくはたった一人になりますが、我慢してください。それではさっそく、あなたの身体に入った特別の微生物である超粘菌たちに、活動を開始させます⦆
頭脳からからだの芯に熱いエネルギーが縦に走り、一瞬くらっとなった。
そして、あふれるパワーをからだに感じ、森の中を走りだした。
娘はその瞬間、すべてを忘れた。
自分の名前や自分の家やホモ・サピエンスの母と、ネアンデルタール人の父のことや、長(おさ)の父の跡継ぎにふさわしいかどうかを占ってもらうため、自ら一人で出向いて金の粒や青玉(せいぎょく)と呼ばれる飾りを巫娘(みこ)に届ける大事な使いなど、すべてを。
ぴょう~、と口笛を吹き、どんどん走った。