娘と蝶の都市伝説8
娘と蝶の都市伝説8
8-1 ネアンデルタール人の村
1
獣の毛皮をまとった髭の翁(おきな)は、杖をつき、おぼろな眼差しで洞窟を見渡した。
すでに日が暮れようとしていた。
洞窟内に焚き火の炎が揺れている。
炎を囲み、いくつもの黒い影が背を丸めている。
その洞窟には14家族、70人余が住んでいた。
あたりでいちばん大きな集団だった。
ネアンデルタール人は動物を捕らえ、囲いの中で育てていた。
洞窟の前には木々が茂り、女たちが果実を採取していた。
食料を安定的に確保し、移動する生活はとうに捨てていた。
それでも長年の慣習どおり、男たちは、石や槍を使い、徒党を組んで大型獣を狩った。
洞窟ばかりではなく、平野にも進出していた。
住民たちは日常生活に満足し、けだるい宵(よい)を満喫(まんきつ)していた。
子供の叫び声や笑い声、大人たちの低い話し声などがぼそぼそと響き、洞窟内にいつもの時がながれた。
だが、いつもと違って静かすぎた。
だれもかれもが痩せ衰え、男も女も次々に死んでいったのだ。
躯(むくろ)は十日ほどで砂塵(さじん)になり、風に飛んでいった。
あっというま、七十人の洞窟の仲間が半分になった。
「なんということだ……」
髭の翁は肩をわななかせた。
翁の洞窟だけではなかった。ほかの洞窟や近くの平野の仲間も同じだった。
杖を持つ翁の骨張った拳がふるえた。
窪んで黄色く濁った目に、恐怖の色が走った。
「あの娘だ……あの娘以外に考えられない」
二週間前。ホモ・サピエンスとネアンデルタール人の混血の娘が、ふらりと姿を現した。
目の底がかすかに青く、豹の毛皮を着、肩に同じ豹の毛皮の物入れをかけていた。
ネアンデルタール人が住むこの地域では見かけなかったが、すこし離れた周辺にはホモ・サピエンスが住んでいた。
ネアンデルタール人には二種類の系統があった。
骨太で筋肉質なからだつきのづんぐりした体躯の種と、比較的ホモ・サピエンスにちかい細身の体躯の種だ。
娘は後者の細身のタイプのネアンデルタール人との混血だ。
ホモ・サピエンスは、まだ移動中の生活であり、その日暮らしだった。
それに比べ、定住するネアンデルタール人は、食料供給の安定化を果たした後、装飾品などをたしなみ、文化的な生活を送っていた。
ゆとりのあるネアンデルタール人は、毎年人口を倍々に増やしていった。
そしてあっというま、ヨーロッパ北部、中部、南部をおおい尽くそうとしていたのである。
異様な増殖率だった。
また、積極的に融合する気持ちはなくても、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスが接する地域では、双方の女が混血の子供を生んだ。
共同生活を営む集団もあった。
問題の娘は、ネアンデルタール人の村々に寄りながら、この洞窟にやってきた。
かわいらしく気さくな娘は、すぐに村人たちの人気者になった。
娘の心の優しさをあらわすように、親しくなった男たちと頬を寄せ、軽くキスをした。
清純そうな娘だったので、男たちはみんな気分を浮き浮きさせた。
実はだれも気づかなかったのだが、娘は吐く息に魔法の力を宿していた。
体内から、目に見えない微生物のウイルスを吐きだしていたのである。
鼻や口からウイルスを吸いこんだ感染者は、次々に仲間を感染させていった。
このときウイルスは、同じDNAを持った相手を感染させるよう指令を受けていた。
それゆえ、混血した娘はホモサピエンスのDNAをもっており、後世に命をつなぐことができたのだ。
翁も、若い娘とハグができ、久しぶりに血が騒いだ。
一息ついて、もう一度ハグをと娘を探し、.杖もつかず、洞窟の入り口までいってみた。
「豹の毛皮を着た、瞳の青い混血の娘を見なかったか?」
聞いてみると、入り口に立っていた女が答えた。
「次の村に用があると言って、楽しそうに口笛を吹きながら出ていったけど。あの人、なにしに来たんだろ」
不思議な混血の娘だった。
それから十日ばかりたったとき、病人が出はじめた。
男も女も、若者も年寄りも、不明の病で死んでいった。
そしてその死体は、この世にネアンデルタール人など存在しなかったかのように、砂屑になって消えていった。
かろうじて発症をまぬがれていた翁の頭の中が、真っ白になった。
「あの娘、いったい何者だ」
翁の膝が小刻みにふるえた。
「もしかしたら、われわれはこれで──」
虚空(こくう)を睨(にら)む翁の黄色い眼(まなこ)に、稲妻(いなずま)のような恐怖が走った。
翁の恐れたとおり、ネアンデルタール人たちは、人類史の途中で忽然(こつぜん)と姿を消してしまうのだった。
8-1 ネアンデルタール人の村
1
獣の毛皮をまとった髭の翁(おきな)は、杖をつき、おぼろな眼差しで洞窟を見渡した。
すでに日が暮れようとしていた。
洞窟内に焚き火の炎が揺れている。
炎を囲み、いくつもの黒い影が背を丸めている。
その洞窟には14家族、70人余が住んでいた。
あたりでいちばん大きな集団だった。
ネアンデルタール人は動物を捕らえ、囲いの中で育てていた。
洞窟の前には木々が茂り、女たちが果実を採取していた。
食料を安定的に確保し、移動する生活はとうに捨てていた。
それでも長年の慣習どおり、男たちは、石や槍を使い、徒党を組んで大型獣を狩った。
洞窟ばかりではなく、平野にも進出していた。
住民たちは日常生活に満足し、けだるい宵(よい)を満喫(まんきつ)していた。
子供の叫び声や笑い声、大人たちの低い話し声などがぼそぼそと響き、洞窟内にいつもの時がながれた。
だが、いつもと違って静かすぎた。
だれもかれもが痩せ衰え、男も女も次々に死んでいったのだ。
躯(むくろ)は十日ほどで砂塵(さじん)になり、風に飛んでいった。
あっというま、七十人の洞窟の仲間が半分になった。
「なんということだ……」
髭の翁は肩をわななかせた。
翁の洞窟だけではなかった。ほかの洞窟や近くの平野の仲間も同じだった。
杖を持つ翁の骨張った拳がふるえた。
窪んで黄色く濁った目に、恐怖の色が走った。
「あの娘だ……あの娘以外に考えられない」
二週間前。ホモ・サピエンスとネアンデルタール人の混血の娘が、ふらりと姿を現した。
目の底がかすかに青く、豹の毛皮を着、肩に同じ豹の毛皮の物入れをかけていた。
ネアンデルタール人が住むこの地域では見かけなかったが、すこし離れた周辺にはホモ・サピエンスが住んでいた。
ネアンデルタール人には二種類の系統があった。
骨太で筋肉質なからだつきのづんぐりした体躯の種と、比較的ホモ・サピエンスにちかい細身の体躯の種だ。
娘は後者の細身のタイプのネアンデルタール人との混血だ。
ホモ・サピエンスは、まだ移動中の生活であり、その日暮らしだった。
それに比べ、定住するネアンデルタール人は、食料供給の安定化を果たした後、装飾品などをたしなみ、文化的な生活を送っていた。
ゆとりのあるネアンデルタール人は、毎年人口を倍々に増やしていった。
そしてあっというま、ヨーロッパ北部、中部、南部をおおい尽くそうとしていたのである。
異様な増殖率だった。
また、積極的に融合する気持ちはなくても、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスが接する地域では、双方の女が混血の子供を生んだ。
共同生活を営む集団もあった。
問題の娘は、ネアンデルタール人の村々に寄りながら、この洞窟にやってきた。
かわいらしく気さくな娘は、すぐに村人たちの人気者になった。
娘の心の優しさをあらわすように、親しくなった男たちと頬を寄せ、軽くキスをした。
清純そうな娘だったので、男たちはみんな気分を浮き浮きさせた。
実はだれも気づかなかったのだが、娘は吐く息に魔法の力を宿していた。
体内から、目に見えない微生物のウイルスを吐きだしていたのである。
鼻や口からウイルスを吸いこんだ感染者は、次々に仲間を感染させていった。
このときウイルスは、同じDNAを持った相手を感染させるよう指令を受けていた。
それゆえ、混血した娘はホモサピエンスのDNAをもっており、後世に命をつなぐことができたのだ。
翁も、若い娘とハグができ、久しぶりに血が騒いだ。
一息ついて、もう一度ハグをと娘を探し、.杖もつかず、洞窟の入り口までいってみた。
「豹の毛皮を着た、瞳の青い混血の娘を見なかったか?」
聞いてみると、入り口に立っていた女が答えた。
「次の村に用があると言って、楽しそうに口笛を吹きながら出ていったけど。あの人、なにしに来たんだろ」
不思議な混血の娘だった。
それから十日ばかりたったとき、病人が出はじめた。
男も女も、若者も年寄りも、不明の病で死んでいった。
そしてその死体は、この世にネアンデルタール人など存在しなかったかのように、砂屑になって消えていった。
かろうじて発症をまぬがれていた翁の頭の中が、真っ白になった。
「あの娘、いったい何者だ」
翁の膝が小刻みにふるえた。
「もしかしたら、われわれはこれで──」
虚空(こくう)を睨(にら)む翁の黄色い眼(まなこ)に、稲妻(いなずま)のような恐怖が走った。
翁の恐れたとおり、ネアンデルタール人たちは、人類史の途中で忽然(こつぜん)と姿を消してしまうのだった。