娘と蝶の都市伝説6
ダンに連絡してみよう、と懐のケイタイに手をのばしたとき、背後のもうひとつのドアに気づいた。
ドアを引くと、ふわっと開いた。
窓のカーテンが左右に開けられ、ベージュの絨毯(じゅうたん)にニューヨークの午後の陽が照っていた。
十畳ほどのその部屋の中央に、背丈よりも高い大型冷蔵庫が一台、でんと置かれていた。
5
大型冷蔵庫の向こう側には、チェストとアクリルの洗濯乾燥機が隠れていた。
籐製のチェストの引き出しには、なにも入っていない。
洗濯機にも洗濯物はない。
置かれた大型冷蔵庫の扉を開けた。がらんとした空間に、真新しい合成樹脂のかすかな匂い。
冷蔵庫にもまだなにも入っていない。
しかし、じーんと低い音をたて、忠実に任務をこなしている。
秦は観音開(かんのんびら)きの上部のドアを閉め、冷気から逃れた。
そして、その下の段の取手に手をかけた。
冷凍庫とおぼしき四角い引き出しは、膝頭から臍(へそ)まであった。
アメリカの大型冷蔵庫は、身長190センチほどの大男を標準にしているのか。
しかも片手で引いても手前にでてこない。
もう一方の手を添え、力をこめて引いてみる。
こくんと音をたて、大型のボックスが滑りでてきた。
中味の重さで、自動的に動きだしたという感じである。
ボックスは、半畳もあろうかと思われる大きさだ。
そこには、スペースにおさまった品物が、でこぼこになって白い霜(しも)をかぶっていた。
動物がまるごと一匹放り込まれているのか。
なんだろう、とぎょっと見守る。
その一匹は横向きに背を丸め、肘を腹につけ、握った拳を額に寄せている。
頭をすこしだけ横にひねり、上を見ている。
「これは?」
息を飲み、腰をかがめた。
まさかと、そっと手を伸ばした。
その物体の表面の白い霜をはらってみた。
でてきた衣類に見覚えがあった。
力を込め、霜をこそぎ落すと、ストライブの模様がでてきた。
ヤンキースのユニフォームだ。
からだを固くし、もう一度ボックスを見直した。
髪が半分肩にかかっていた。
「人間の女……」
震える手で、今度は、顔にかかった白い霜を擦り落とした。
ボックッスを覗き込んだまま、身動きができなくなった。
心臓の鼓動がはっきり聞こえた。
真四角のボックスの中で、黒髪を乱した女性がヤンキースのユニフォームを着、凍りついていたのだ。
もう一度、凍っている人間を見直した。
手をのばし、顔にかかった白い霜を払った。
秦はボックスの縁に手をかけたまま、膝をついた。
心臓が握り潰されるかのように、ぎゅっと痛くなった。
「ユキ……」
言葉を絞りだした。
やや上をむいた彼女の横顔が、秦の目の前にあった。
睫毛(まつげ)が一本一本、白く凍っていた。
うっすらと開いた瞼の隙間から見える眼球も、白く凍っている。
その隙間から、目の底のかすかな青味がうかがえた。
なにかをつぶやこうと口を動かした。しかし、言葉がでない。
冷静になれと息を飲み、落ち着きを取り戻そうとした。
秦は、彼女の顔をおおっている白い霜を手の平でこそぐように、二度三度と撫でた。
からだはかちかちに凍りついていた。
深呼吸しながら、落ち着け、落ち着け、と言い聞かせる。
梅里雪山で凍死した三人の一件が思い浮かんだ。
高虹(ガオホン)の仲間がこのホテルにもいるのか。
だが、部屋はしんとしていて、開け放たれた冷蔵庫の冷却音が低く響いているだけだ。
ユキはうっすらと目を開け、笑みを浮かべているようにも見えた。
それが、釈迦(しゃか)の涅槃像(ねはんぞう)のような恍惚(こうこつ)の表情に思えた。
と同時に、ベッドの上で同じような顔をしていた四歳の雪子が重なった。
さらに『もし自分が氷に埋もれたら、氷が溶けたとき、迎えにきてください』と言っていた古文書の言葉が重なる。
分かっていた。それはあくまでも古文書の世界なのだ。
ある出来事が口伝(くでん)によって誇張され、何人もの語り部の口を経、文字として定着した神話に近い伝説なのである。
「いったい、どうなっているんだユキ……」
頭の中に、解けない糸の固まりが紐をこんがらかせ、ごろんと転がっていた。
秦は膝を突いて立ちあがった。
とにかく、なんとかしなければならなかった。
ホテルに知らせるか、警察か、ダン・池田か、日本大使館か。
いや、やはりホテルのフロントだ。あとはホテルがやってくれる。
秦は窓際の電話台のほうに歩みだした。辛い足どりだった。
「なにをどう説明したらいいんだろう」
二歩、三歩、と絨毯(じゅうたん)の上を歩む足に、なにかが絡みついた。
秦は足をとめた。肩をまわし、冷蔵庫を振り返った。
冷凍ボックスの中に、横顔を秦の方に向けたユキがいた。
カーテンの開いた窓ガラスを透け、黄色味をおびた午後の太陽が、四五度の角度で部屋に射していた。
今までビルの陰になっていたのか、一瞬の隙をつき、陽光が束になってユキの顔を浮かびあがらせていた。
もし、ユキが氷の洞窟からでてきた女だとしたら、そしてアメリカ人のジェフ・エリックがいっていたように、ユキのDNA遺伝子にその解答があるのだとしたら、冷凍庫のボックスに横たわっているユキは目を覚ましてこう言う。
『迎えにきてくれてありがとう』
冷凍生物は、この地球上にちゃんと生息している。
南極毒蜘蛛(どくぐも)はマイナス五十度の世界で十五年間も生き、アメリカアカガエルは冬になると全身をかちかちに氷らせて冬眠し、春になるとまた普通の蛙に戻る。
再生する冷凍生物は存在するのである。
人間をふくめた地球上の生物たちは、その役割が解明されていない大量のゲノムを保有しているのだ。
さらにユキは、通常とはちがう遺伝子を、B5の用紙で二十ページも持っているのだ。
そう考えながら焦点をユキに戻すと、太陽の光を浴びたユキの睫毛(まつげ)の先が、きらっと輝いた。
睫毛の先に溜まった雫だった。霜が融けだしたのだ。
睫毛だけではなかった。頬骨の膨らんだヶ所が、うっすらと滑らかな皮膚の色に変わろうとしていた。
三分、四分、五分と棒立ちになり、秦は冷凍庫と対峙(たいじ)した。
秦は、海を渡ってきた古代の御先祖の意志をしっかりと感じた。
遠く西から娘を追ってきた父親──そしてその末裔たちは、代々の祖先の言いつけを守り、娘が入った洞窟の氷の解けるのを待った。
だが、何代めかの祖先が、やむを得ない理由で当地を離れた。
その無念さをいつかだれかに晴らしてもらおうと古文書を携え、日本にやってきたのだ。
粉をまぶしたような真っ白な霜が、次第にユキのからだから失せ、ヤンキースのユニフォームの生地の糸目がはっきり見えてきた。