娘と蝶の都市伝説6
口封じと、ジェフ・エリックが保有していたDNAの解析データの回収が目的だったようだ。
スーパーを出、通りを十メートルもいったところで、ついに見つけた。
今はあまり見かけなくなった古いスタイルの店だ。
ガラス窓の店内に、椅子とパソコンが並んでいる。
だが、テーブルは昔のネットカフェと違い、食事ができるほどに広い。
それに自分のパソコンを持ち込み、そこで作業ができるようにもなっていそうだ。
秦はネットカフェに入る前に、Tシャツの上からブルーのシャツを着た。
サングラスを掛け、手袋をはめた。
NYのロゴのある帽子は、道路脇のごみ箱に捨てた。
受付の女性に一時間分の料金を払い、周りに人がいない静かな席、と注文をつけた。
受付係りは、手袋をはめてサングラスをかけたイカレポンチの東洋人など、気にもとめない。
いつもと同じにちがいない不機嫌なようすで、32番、と告げる。
奥の32番とおぼしき周囲は、まばらな客だった。
黒人やメキシカンらしき男、それにチャイニーズの男女の姿があった。
指定された席の一列向こうは、大きなガラス窓だ。
外の通りを、車が走っている。
3
秦は32番のパソコンの椅子を引いた。
肩にかけていたショルダーバックをテーブルに置き、手帳を取りだした。
サングラスはかけたままだ。
栞(しおり)の紐のページを開くと、メールアドレスが記されていた。
約束は明日になっていたが、夜中の零時を過ぎたら明日だ。
そのために、すでに準備を終え、送られてきている可能性があった。
試してみても、だれも困らない。
秦は胸で息を吐き、手袋をつけた指先でキーボードを叩いた。
アドレスを打ち終えると、右手を浮かせて気合を入れ、IDナンバーを刻んだ。
このデータのためのに作った新しいアドレスと承認番号だ。
長細いボックスの中に、黒い点が六個の列を作った。
エンターキイを押す。
文字がぱっと浮かんだ。『検査結果について』
やった、きてる、と声をあげそうになった。
だが肘を曲げ、拳を握ってこらえた。
でてきた色つきの文字に、カーソルをあわせた。
さあ、いくぞ、と画面に顔を押しつけ、クリックする。
とたんに画面が動いた。
三、四回瞬いたかと思うと『ようこそ』と画面の中央に小さな文字。
ついで一行の文章が、左から右に流れるように現れた。
『次の規約を読み、必ずYESかNOのどちらかを選択し、お答えください』
どういうことだ、おれは金を払い、すでにパスワードを獲得しているお客さんではない
か、といささか腹がたった。
だが、指示どおり、下のほうのボックスのYESにチェックを入れた。
次のページがでてきた。画面いっぱい、細かな文字が詰まっている。
「読めっていうのか、これを」
同じように下側にボックスがある。
こんなときはYESに決まっていた。
YESをクリックすると、またも同じようなページがでてきた。
急いでYESをクリックする。
すると、またも似たようなページがでてくる。
いらいらしながら五、六ページほどをクリヤする。
すると画面がふっと消え、今度はこんなメッセージが現れた。
『あなたは文章をよく読んでいません。もう一度規約をよく読みなおし、YESかNOでお答えください』
「なんだよ、これは」
すると今度は今の質問とは関係なく、勝手に画面が変った。
『あなたの名前を入れてください』という文章がでてきたのだ。
その下にボックスが表れる。
秦はまた手帳を開き、登録した偽の名前を記入した。
『HAN JINGISU』ジンギス・ハーンをもじったつもりだった。
『HAN JINGISU』が、地震にでもあったように揺れた。
やがて震えが治まると、ボックスにまた文字がでてきた。
またたいた
『ほ ん と の な ま え がひ つ よ う で す。あ な た は だ れ で す か ?』
いま、だれかが向こうで直接対応し、かつかつとキイを打っているかのように、文字が一つづつ順番に並んだ。
『本当の名前を知らせろだって? おれがだれかだって?』
秦はまたたいた。そして、はっとなった。
丸めた背中をのばし、デスクトップから顔を離した。
『まずい。やっぱり逆探知だ』
長々とした文章を読ませようとしたのは、時間稼ぎだったのだ。
しかし、いまの質問で分かったのは、依頼者の名前はまだばれていないらしい、ということだった。
ということはユキの名前もだ。
そのとき、ガラスの窓の外の通りをやってくる黒塗りの乗用車が見えた。
一方通行を逆走し、パトカーが二台ついていた。
ネットカフェの横に止まった車から、スーツ姿の三人がとびだした。
あとに制服の警官がつづいた。
テーブルの上に置いたショルダーバックを掴み、秦は席を立った。
走らず、十歩ほど歩いてから、サングラスを外した。
ブルーの長袖のシャツを脱ぎ、手袋を外し、傍らの植木鉢の根元に押し込んだ。
店内にあわただしい靴音が響いた。
突然現れた制服姿の警官に、客の七、八人があわてて席を立ち、出入り口の方向に走りだした。
身に覚えのある、やましい男たちらしかった。
出口はすでに警官にふさがれていた。
「32番だ」
「壮年の日本人だ」
スーツ姿の男が叫んでいた。
「ブルーのシャツに、サングラスだ」
受付で確かめた情報である。
スーツの裾がめくれ、腋の下の拳銃がのぞいた。
二人が秦の前を通りすぎた。
「CIAだ」
一人がそう叫び、褐色の肌の中年の男の前に立ちはだかった。
「国家機密法違反だ」
男は、警官の言葉にむっと唇をゆがめた。
東洋人だが、日本人ではないようだ。黄色や茶色に染まった白っぽい前掛けをつけ、不精髭を生やしている。一見だらしない印象である。
「お前、日本人じゃないな。ブルーのシャツの日本人はどこだ」
「知らないよ」
困ったように首をふった。
秦は、やりとりを耳にしながら、勝手に走りそうになる足を腿に手の平を当てて押さえた。
正面の玄関では、六人ほどの警官がゲートをつくり、出入りの客たちを鋭い目チェックしていた。
どんなふうにそこを通り抜けたらいいかと考えながら、秦は手前で警官に質問をされ、困った顔をしている東洋人のおやじの横に立った、
「どうしたんですか?」
騒ぎがまるで他人事であるかのような顔つきで、声をかけた。
警官に職務質問をされたおやじは、なにを言われたのかが分からなかったのだ。
もぐもぐとつぶやくその言葉が、中国語のように聞こえた。
もう一度おやじが警官に答える。
「わたし英語分からない。わたしの祖祖父(ひいじい)さん昔、中国からきた」
おやじはそう訴えていた。
英語でもスペイン語でもない。中国語だ。漢語である。
実はよくあるのだが、サウスブロンクスのリトルチャイニーズタウンのような町に住んで、半径一キロから一歩も外で生活することもなく、生涯を終える住民だ。
「この人、言葉分かりません。おやじさんのじいさん、中国からきたんです」
秦は胸の鼓動(こどう)を押さえ、横から口をだした。
警官が、じろっと秦を見た。
「中国からきただあ? 家はどこだ?」
秦が漢語でおやじさんに問う。
「17路で中華料理店やってんだ。北京飯店だ」