娘と蝶の都市伝説5
岩に腰を下ろして空をあおぐ二人を残し、相原は懐中電灯を手に、背丈ほどの瓦礫を登った。
内部は、硬そうな灰色の岩盤でおおわれていた。
「なにもありませんよ。ただの洞窟です」
ぐるり、用心深そうに内部をうかがう相原に、ガツマリがつまらなそうに説明する。
天井には水滴が点々と光っていた。
直径三メートルほどの滑らかな岩肌が円筒状に続いている。
しかし、古代から存在する洞窟なのだ。
どっしりした岩壁が、なにかを物語る偉大な時間を圧縮させているように感じた。
ユキコはこの洞窟に迷い込んだのだろうかと、相原はどきどきしながら一歩を踏みだした。
ユキコは雑談の中で、洞窟にいる自分に気付き、なぜここにいるのか、途惑ったと話していた。
途中で右にカーブしていたが、なにごともなく五十メートルほどで突き当った。
洞窟を去るとき、ユキコが掃除でもしていったのか、内部はきれいで、人跡はどこにもない。正真正銘のただの洞窟だった。
4
洞窟から出ると、雲が空をおおっていた。
三人の荷物を背に積んだ二頭のヤクが、少し離れた場所に立っていた。
「急ぎましょう。気候が多少悪くなっても、早めにテントを張って潜りこんでしまえば、明日は朝からあちこちを廻れます」
洞窟に関する雑談もなく、一行はガマツリにうながされ、ぞろっと動きだした。
あっさり後にしてしまった洞窟だったが、あとでゆっくり探索しよう、と相原もみんなと一緒に谷の路を歩きだした。
一行は斜面をジグザグに登り続けた。
周囲に村のありそうなようすはない。
すべて岩の世界である。何度も休憩をとった。
それでも湯川とエリックは右側と左側に分かれ、真剣な視線であたりをうかがった。
一行はガツマリを先頭に、さっらにゆっくりとした足取りで斜面を進んだ。
やがて、空気がひやっと頬に触れてきた。
「雲がでてきましたが心配いりません。テントを張れば、たとえ吹雪(ふぶ)いても問題はありません。吹雪は明日の朝には止んでいます。早めにテントを張ってしまいましょう。この季節、山で吹雪くなんていい経験じゃないですか」
吐く息が、いつのまにかほんのり白かった。
「雪が見えてきましたよ。そこに私が用意してきた三人用のテントを張ります。皆さん一緒のほうがいいでしょう」
一人用よりも三人用のほうが心強そうな気がし、相原は異を唱えなかった。
三人の荷物を積んで別のルートを登ってくるヤクは、まだ到着していない。
残雪の岩場だった。
目を光らせ、周囲をうかがう湯川とエリックの姿が相原には印象的だった。
あっという間、頭上が雲におおわれた。
そして、風が吹きだした。
同時にぐんぐん気温が下がりだした。
ガマツリと一人の部下が、急いでテントを張った。
そのテントは、ガツマリの部下が背中に背負った籠の中にあった。
完全に厚い曇でおおわれ、吹く風が肌を刺すようになった。
ひゅーっと、悲鳴のような音が遠くに聞こえた。
「中で待っていてください。眠ってもいいですよ。ヤクを迎えにいって、私たちも隣にテントを張り、食事を用意します。もし天気が荒れたとしても、外には出ないようにしてください」
三人ともくたくただった。
逃げ込むようにテントに潜り、横になった。
は意外に広く、貴重品の入ったナップサックを枕にさっそく三人は横になった。
「おれたちにこんな強行軍をさせるなんて、ガイドらしくないな」
エリックが文句を言ったが、三人は一息つくのに夢中だった。
三人とも思いのほか、体力を消耗していた。
湯川を挟み、三人が横になる。
野宿馴れしているのか、湯川は即座に寝息をたてだした。
エリックは腹這いになってペンライトを横に置き、手帳にメモをとりだした。
相原も目を閉じた。
遠い昔に洞窟に入っていった一人の娘。
そしてその洞窟で目覚めたユキコ。
同時に、あの高虹という男、バスで会っただけなのに、なんでこんなに親切にしてくれるんだろう──疑問が頭を持たげた。
5
ひゅーん、という風の音で目が覚めた。
薄暗かったし、猛烈(もうれつ)に寒かった。
テントがばたばた煽(あお)られ、シートの外側に、積もった雪の薄い影ができていた。
外は猛烈な吹雪である。
腹が減ったが、ガイドたちも食事を用意するどころではないだろう。
いざとなったら、ナップサックの中のチョコレートを食べればいいと、相原は覚悟を決めた。
風が、びゅーん、びゅーんと激しく音をたてる。
そのたびにテントが揺れる。
相原の横の湯川は気にもせず、一心に眠っている。
エリックは腹這い、まだペンライトの明かりで手帳にメモを取っていた。
ばたん、ばたんとテントが上下に揺れた。
風がますます激しくなった。
テントが浮き上がるように暴れだした。
屋根が、ぶかぶかと大きく煽られている。
そこに横殴りの突風がどんとぶつかってくる。
テントが、ずるっと、ずれたような気がした。
さすがにエリックも顔をあげ、ようすをうかがった。
そして湯川の向こうから、耳をすます仕草で相原のほうを見、小さく肩をそびやかした。
ごごごごっと、地鳴りのような轟きがあった。
一瞬の後、テントに横風が直撃した。
ばあーん、と音がした。
なんだこれは? 瞬間、相原はそう思った
からだがふわっと浮いたとたん、視界からテントが消えてしまったのだ。
そして、相原は枕にしていたナップサックとともに、どすんと雪の上に放り出されていた。
横殴りの吹雪の中だった。
なにがなんだか分からない。
もとの場から二歩も離れていないようだった。
中国製の粗悪品だったからなのか。
テントの底が裂け、三人を残し、どこかに吹き飛んでしまったのだ。
笑えるどころの話ではなかった。
雪に片手をついて上半身を起こすと、頬を刺す衝撃があった。
降りつける雪だった。
「湯川さあん。エリックさあん」
相原は叫んだ。
相原の左側で、二人が上半身を起こした。
どどっと重たい音をたて、吹き付けてくるブリザード。
三人は互いに膝で這い寄った。
「おーい、おーい」
湯川とエリックがガイドを呼んだ。
だが、いくら呼んでも反応はなかった。
すぐ隣でガイドたちがテントを張っていた訳ではなかったのだ。
吹雪の山に、三人だけしかいなかったのである。
容赦(ようしゃ)ない横殴りの雪。
息もできないほど激しくなる。
渦を巻き、全身に襲いかかる。身動きはできない。
ぶるぶると震えていたのは数分ほどだった。
すぐに感覚が失せた。
「おーい、おーい」
湯川とエリックが交互に叫び続ける。
みるみるからだが氷っていった。
ものの五、六分で、氷点の悪魔が芯に達した。
「おーい……」
「おーい……」
その声が萎むように小さくなった。
湯川とエリックが、崩jれるように倒れた。
相原にも眠気が襲ってきた。
眠ったら死ぬと分かっていても、抵抗できなかった。
深い眠りに引きずり込まれる瞬間、相原は洞窟の中に立っているユキコの姿を見た。
ユキコは、湯川が持っていたものと同じ毛皮をまとい、ポシェットを肩から下げていた。