娘と蝶の都市伝説5
5-2 雪山を目指す三人
1
相原ひとみは、乗り換えのため、中国、雲南省の香格里拉(シャングリラ)のバスターミナルの待合用のベンチで、徳欽(ダーチン)(きのバスを待った。
相変わらずラフなジーンズ姿だ。
髪の毛を結い上げ、頭のてっぺんにバンスクリップでまとめている。
相原は、上海で観光客をカモにして商売をしている劉(りゅう)にたのまれ、日本行きの不法滞在予定者たちの生徒に、初級の日本語を教えていた。
そのときの生徒の一人が雲南省の麗江(れいこう)出身だと知ったとき、ユキコを思い出した。
ユキコは相原にこう訴えた。『自分が誰なのか分からないので、調べてもらえないですか。気がついたら梅里雪山(メリーシュエンシャン)の麓(ふぃもと)の、明永氷河(みんえいひょうが)の裏路にある洞窟にいたんです』と。
相原に日本語教師の仕事をくれた劉という男も、ユキコは日本人のような名前だが、雲南省の奥地の雪の山を戴(いただ)く山村の出身らしいと告げた。
あっというま、言葉を覚えてしまう天才だった。
しかし、自分がどこからきたのか分からない、と青みがかった瞳で怯えていた。
機会がきたらその洞窟とやらを確かめてみたい、と相原はずっと考えていた。
日本行の不法滞在者の生徒を送りだし、一息ついたとき、相原は麗江に出向いた。
そしてユキコが泊まった麗江のホテルのフロントの男性から、薬屋の楊(よう)を紹介された。
楊はユキコの父親と知り合いで、度々ホテルに父親が滞在しているかを電話で問い合わせていたのだ。
そんなとき相原が姿を見せたので、フロントの男性は、娘さんのユキコを訪ねて日本人の若い女性がきたと楊に知らせた。
すると、会ってみたいと伝えてきたのである。
楊は秦の娘さんの知り合いの相原に、あまり他人には話さないでください、と言いながら奇妙な古文書の件について教えてくれた。
2
標高三二七六メートルの高原都市、香格里拉(シャングリラ)にそよ風が吹いた。
待合室にあふれる爽やかな高原の空気。
ぼんやり景色を眺めていると、香格里拉の中心地の方向から空色のボンネットのタクシーが姿を見せた。
降りてきた二人の男は、相原と同じように大きなザックを手にしていた。
キャラバンシューズに薄手のヤッケを着たその格好は、明らかに登山のスタイルだ。
一人は180センチはありそうな白人、もう一人は中肉中背の色黒の東洋人。
二人分の荷物を待合室の入口の脇に置き、日焼けした東洋人のほうが手ぶらで待合室に入ってきた。
手にメモ用紙をもち、入り口のベンチに座るバス待ちの男に話しかけた。
「バーシー、ダーチン、チュー?(バス、徳欽、いく?)」
明らかに即席で覚えた中国語だった。
だが発音が悪く、通じない。
東洋人はぎょろ目で待合の客たちを見渡した。
そして、右端に座っている相原と目を合わせた。
それと気づいた相原が笑顔を見せた。
「もしかしたら、日本の方でしょうか?」
日本人の男の問いかけに、はいと相原は答えた。
「徳欽へいくのですか?」
相原も聞き返した。
「そうです。あなたも徳欽ですか?」
登山とおぼしき互いの姿を確かめ合った。
「梅里雪山(ばいりせつざん)ですね?」
双方が同時に同じ質問を発した。
二人の外国人は相原とは反対側に席を見つけ、腰をおろした。
白人は黙って待合室の窓の外の景色を眺め、考え事をしていた。
もう一人の日本人は、ケイタイでメールを打っていた。
突然、クラクションが響き、待合室の真ん前に大型バスが止まった。
待っていたバスだった。
相原が二人の外国人の後ろの窓際の席を確保した。
すると、失礼します、と隣に一人の男が座った。
普通なら黙って荒々しく腰を降ろすところだが、珍しくマナーを心得ていた。
相原と目が合うと、軽く会釈をした。
中国人ではあろうが、外国暮らしの経験がありそうだった。
身につけている上着やパンツも中国製ではない。
上着は、黒い高級そうな革のジャケットだ。
バスは乗客の荷物をボディの横腹に収め、出発した。
しばらくして声をかけられ、目を覚ますと、前の席から湯川がのぞいていた。
トイレ休憩だった。
そこは崖の上の広場で、柵越しに首をのばすと谷底に勢いのいい茶色の流れが見えた。
上海の長江までつづく川である。
「アイハラさん、女性一人で梅里雪山に登るなんて、すごいですね」
話しかけてきた。梅里雪山に登るといっても、ただ麓を歩き廻るだけだ。
「失礼ですが、お二人はどのようなご関係ですか?」
相原は訊ねてみた。
「じつは私たちは友達で、ちょっとした調査のためにきたのです。下見というところかな」
湯川が、パートナのエリックにも分かるように英語で答える。
「私は動物学者です。実は梅里雪山の麓の村に、豹(ひょう)がいるという話が伝わってきたんです。私はネパールで虎の調査もしているのですが、梅里雪山の豹というのは、実在するとしたら新発見です。今回は下見のために訪れました。それでエリックの方だけど、彼は、豹をDNAの分野から研究している生物分子学者です。でも正式の調査ではありません。梅里雪山の氷河を見物ついでに、トレッキングを兼ね、あたりの村々を巡ってみようかと考えているんです」
二人とも学者だそうだが、もし一緒にいけたら面白そうだと相原は考えた。
「ところで梅里雪山に着いたら、あなたがたはどうやって村々をトレッキングするんですか。許可なく、村々を豹の話を聞いては廻れませんよ。すぐに通報されます。下手をしたらスパイ容疑で死刑か永遠の刑務所暮らしです」
相原は上海で見聞きした憶測を混え、忠告した。
そのとき相原の左側から、ん、ん、と咳払いが聞こえた。
顔を向けると、二メートルほど離れた柵に両肘を突き、三十代の男が谷をのぞいていた。
「すみません。その気はなかったのですが、話が全部聞こえてしまいました」
流暢(りゅうちょう)な英語である。男は、バスの中で相原の隣の席に座っていた中国人らしき乗客だ。
「私、高虹(ガオホン)と申します。じつは私、徳欽に生家があるんです。いまはもう直系の人は住んでいませんが、血縁関係の者が暮らしています。私はアメリカのコロンビア大学で物理学の講師を務めています。このバスで子供時代をすごした故郷へ、数年に一度の帰省の旅なんです。
でも、を聞いて同じ学者としてなにか手伝えないかと思いました。だれか知り合いの者にガイドをさせますよ。公安も地元の役人も知人です。一杯おごれば、みんな目をつぶってくれます。なんの問題もありません。わざわざこんな山奥まで下調べにきて困っているのに、地元の人間としては黙って見過ごせません」
アメリカの大学で講師をしているくらいだから、ある程度の地位にある家系なのだろう。
「ありがとう。高虹さん……なんとかなるって言っただろ。もうそのとおりになったじゃないか」
湯川は日本語でつぶやいくと、足音をたて、相原の後ろ側を回り、高虹と握手をした。
エリックもそれにならった。
つられて相原も二人の背後から手をだした。