娘と蝶の都市伝説4
そのために開発された薬も飲ませてあった。
だが、人間はそう簡単に自己を曲げない。
自己否定の前に抵抗と混乱があり、混乱のあとに無力感があらわれ、そのあとで白紙状態におちいる。
「答えなさい」
キャロン博士は威嚇的《いかくてき)に命じた。
碧い目の男と若い女医の二つの顔が、ワインスターを静止画像で睨んでいた。
言葉つきや態度まで一変したその違和感に、この人たちはどうしたんだろう、とワインスターは混乱した。
ワインスターは、鈍《にぶ)った頭を左右に振った。そして、そうだ、とつぶやいた。自分は人を騙したり、嘘をついたりなどすることのない誠実な人生を歩んできたはずだ。それが私の信念だったではないか──。
「私は嘘をつくことも、人を騙したこともありません」
ワインスターは、喉からことばを絞りだした。
「真実を言わなければだめだ」
キャロン博士が、小さく首をふる。
「嘘はいけません、ワインスターさん」
隣の若い女医が、うつむき加減の顏で視線を向ける。
「過去にどんな悪さを働いてきたかを、思い出すんだ。いっぱいあるだろう」
しかし、頭に浮かんだのは、母のやさしい笑顔だった。
母は少年時代のワインスターにこう諭した。
『あなたは容姿に欠けるところがあります。これは事実として認めなければなりません。でも、容姿に勝るものがあります。それは心です。誠実さと素直さを大切にして生きていくのです。そうすれば、あなたはやがて幸せを手に入れ、充実した人生を送ることができます』
長じてワインスターは、小太りで髪が薄く、やけに額が広く、背の低い青年になった。
だが母親の言いつけを守り、だれからも愛され、信頼され、事業にも成功した。
「私は誠実に生きてきました。事業がうまくいったのも、みんなに信頼されたからです」
「それはあなたの勘違《かんちが)いです。よく考えてみるんですな。あなたは、まだまだ、治療が必要です」
キャロン博士は席を立った。
看護師が呼ばれ、注射が打たれた。
4
ワインスターが目覚めるや、キャロン博士は前回と同じ質問をくり返した。
「あなたはずいぶん人を騙してきました。本当は悪人です──」
ワインスターは、他のだれかにもそんな指摘を受けたような気がし、室内を見渡した。
「ここはアラン研究所です。あなたは入院しているんです」
「あなたは悪人だったことを、認めますか?」
キャロン博士が迫った。
ワインスターは、自白効果のあるアミタールなど数種の薬を飲まされていた。
自己防衛に対する抵抗性を奪うのである。
次の週には毎日、幻覚剤のLSDを二アンプル、静脈に注射された。
そうしてベッドで目覚めると、質問された。
「どうしてみんなに嫌われているのか、分かるか?」
前回のつづきである。
その質問に答えなければと、ワインスターは曲げていた脚を伸ばした。
だが、すぐに自分がなんのために脚を伸ばしたのかを忘れた。
LSDの作用で、頭に浮かんでは消える真っ赤な風船に気を奪われたのだ。
「あなたの奥さんのエミリさんは、婦人服の縫製工場を売ったそうです。あなたが働かなくなったので注文がなくなり、借金が増えたんです。だから奥さんは怒っています」
キャロン博士は、奥さんから何度も電話をもらった。
夫に会いたい、工場をどうしたらいいか、本人に相談がしたいと。
相談に応じられる状態ではない、とキャロン博士は拒否した。
ワインスターは、工場という言葉におぼろながら現実に引き戻された。
「一時的な外出許可を認めます。病院の車で、工場にいってみましょう」
変わりはてた工場を目の当たりにし、大いにショックを受けて欲しかった。
やり手だったワインスターは、セールスから工場経営までを一人で仕切っていた。
その中心人物が突然、三ヶ月近くも休んだのだ。
不景気な世の中だ。ワインスターの人柄と手段でぎりぎりのところで堪《こら)えていた経営は、たちまち行き詰った。
キャロン博士は車を用意し、後部のワインスターの隣に座った。
工場には塀もなく、屋根も柱もなくなっていた。
空き地と化したその跡に、数人の浮浪者が屋根の端くれや板塀を利用し、小さな小屋を建てていた。
ワインスターは後部座席でかちかち歯を鳴らし、虚空に目を据えた。
自失呆然となったワインスターを乗せ、車は研究所に引き返した。
そのままワインスターは、三日間、ベットの上に放って置かれた。
5
1954年、精神科医のウーガ・ツェレティは、郊外の食肉処理場を訪れ、豚が、頭部に125ボルトの電気を流され、意識を失わされている現場を見た。
癲癇《てんかん)性の昏睡である。その隙に、職人が胴体から頭を切り落とすのである。
この時、脳は無であり、白紙状態になっているのではないのか。
この状態を見すかし、脳に新しい情報を書き込めるのではないのか──。
ウーガ・ツェレティは、悲惨な言動を示す精神疾患の患者を救おうとしたのだ。
電気ショック療法、ETCはこうして生まれた。
6
「気分はどうかね?」
二週間もの連続睡眠でからだは重く、眠りの世界にどっぷり浸っていたい気分だった。
「今日から次の治療に移ります。荒っぽいかもしれませんが、ちょっと我慢していただきます。返事ができたら、はい、と答えてください」
ワインスターは、うーと口の端から声をもらした。
「本人への説明もすみ、諒承も得ましたので始めましょう」
ワインスターの両腕が腰に添えられた。
腕と腰にベルトが巻かれ、きつく締められる。ついで両脚、そして頭も枕に固定された。
ひんやりした金属の箆《へら)が、左右のコメカミに当てられる。
「スタート」
技師の声。
ワインスターの頭が、どんと爆発した。からだじゅうに衝撃が走った。
ワインスターは白目を剥き、四肢を突っ張った。
歯を食いしばり、背を反らせる。
「スイッチOFF」
見開らかれた眼球が、ひっくりかえった。口からは泡がでた。
「スイッチON」
ワインスターは全身全霊でもがき、海老反《えびぞ)った。
やがてスイッチが切られ、からだ全体がマットに沈んだ。
ぷーんと尿の臭い。
キャロン博士が睡眠薬の注射を命じた。
ワインスターは、三日おきにETCを受けた。これを合計三十回続ける。
そうして脳が完璧な無と化したとき、新しい情報をインプットするのだ。
キャロン博士は、誰の目にもはっきり分るかたちでワインスターを仕上げたかった。チビでデブでハゲのこの醜男《ぶおとこ)が、自分に偉大なる名誉を与えてくれるかもしれないのだ。
死闘三十回のETCが終わった。
7
『ワインスター、ワインスター』
テープの声がワインスターを呼ぶ。
『おまえは豚になった。目が覚めたら四本の脚で歩いてぶうぶう鳴き、この部屋をでていけ。廊下の十メートルほど先に小屋がある。そこに待っている仲間の豚とゆっくり眠れ』
二十四時間、ヘッドホーンから流される。
『おまえは豚になった。おまえは豚になった……』
『おまえは豚になった。おまえは豚になった……』
『そうか……おれは豚になったのか……』
『おまえは豚になった。おまえは豚になった……』
『そうか……豚になったのか……』
三十日間がすぎた。