娘と蝶の都市伝説4
4-1 精神科医の人間改造計画
1
イースター島を飛びたったBATARAの蝶は、長い無着陸飛行を続けた。
インドネシアからの大飛行だったが、自分たちはどこで娘と会い、そこでなにをするのか、長老もまだはっきり分かっていなかった。
蝶の姿をしているが、自分たちは粘菌《ねんきん)であり、微生物《びせいぶつ)の集合なのだ。
「地球生命を危機に陥れるなにかがあれば、われわれは行動する。今までフタバガキの根の下の洞《ほこら)で、長い間のんびり寝起きをしていたので、まだ神経がぴりっとしていない。とにかく今は次の陸地を目指す。みんなたのむぞ」
長老の言葉に一同は、おおーと答え、思いだしたように力強く羽ばたく。この場合の長期間ののんびりは、数億年の単位の意味になる。
いけどもいけども海だった。
水平線の彼方にようやく大陸が見えたとき、全員が歓声をあげた。
パルスを送ると、すぐに返事がかえった。
『ここはチリの国です。われわれの居場所は首都、サンチャゴ市内のモネダ宮殿の前庭です。南米を代表し、BATARAを歓迎いたします。ゆっくり休んでください。遠いところをみなさん、ごくろうさまでした』
かなたの前方に、白銀をいただくアンデス山脈が霞んでいる。
『サンチャゴの超粘菌、カナダの病院がおこなった《人間を作り変える研究)についての情報をまとめておいてくれましたか』
長老が呼びかけた。
以前から切れ切れに噂を聞いていて、気になっていたのだ。
「ええ、まとめておきました。知恵のある人間は、すごいことを考えるもんです」
サンチャゴの超粘菌は、困ったような口調で答えた。
「サンチャゴの超粘菌、そちらに着くまでの間に、その話を聞かせてください」
2
1957年。
ワインスターは、カナダのモントリオールで婦人服の製造工場を営んでいた。
経営は順調だったが、不眠と息苦しさに悩み、近くの診療所に通っていた。
しかし、症状は改善せず、医師からモントリオールのアツギル大学付属のアラン研究所を紹介された。
アラン研究所は、精神科専門の病院を併設していた。
時計台のあるレンガ造りの病院は、研究所にふさわしい風格で丘に聳《そびえ)えていた。
ワインスターは一人、タクシーに乗って病院を訪れた。心配する妻に、精神科と言っても大したことはない、と自ら気構えを見せたつもりだった。
受付に紹介状をだすと、すぐに診察室に通された。
「眠れなくなってしまったんです。どこからともなく不安が込み上げ、息苦しいんです」
精神科医に訴えた。ワインスターは働き盛りの49歳。一介の雑貨のセールスマンからのしあがった精力的な人物だった。手に入れた屋敷で、妻と三人の子供と暮らしていた。見た目はチビでデブで不細工だった.が、明るく陽気で誠実な性格だった。
「だいじょうぶですよ。最新療法でどんな症状でも治癒《ちゆ)します。ご安心ください」
ハンサムな所長、キャロン博士の冷たげな碧《あおい)い瞳や感情を抑えたしゃべり方に、ワインスターは学識者にふさわしい品格を感じた。
その所長自らが担当医になってくれたのである。
「とりあえず一週間、入院してみましょう」
正直いって、精神科への入院には抵抗があった。いろいろな噂があたからだ。
ワインスターは女性の看護師の後について廊下を歩きながら、病院内の物音を聞き取ろうと耳をそばだてた。
だが、檻《おり)の中での叫び、呻《うめ)き、怒鳴り声などは、どこからも聞こえてこなかった。
中庭に面した部屋だった。庭の木々は緑で、花壇には花が咲いていた。小鳥の声も聞こえた。部屋にはベッドが一つとロッカー、それに小さなテーブルがあった。
睡眠療法で対処すると言ったが、どんな療法なのだろう、とワインスターは小太りのからだをベッドに横たえた。
『あなた』
妻のエミリの声がした。
『おとうさん』
三人の子供の声が重なった。ワインスターは微笑んだ。
「心配するな。お父さんはなにがあってもくじけず、いつも困難を乗り越えてきた。ここは世界一有名な病院で、ボスのキャロン博士が私の担当医だ。一週間後にはよくなって帰れるからな」
妻のエミリとの結婚は、21歳のときだった。ワインスターまだ雑貨を扱うだけのただのセールスマンだった。
妻の家は資産家だったが、両者の差は十年後には縮まった。
ドアが開き、看護師が入ってきた。
手に乗せた盆には、三種類の薬が用意されていた。
薬を飲んだワインスターは、五分もしないうち、目が霞んだ。
ワインスターは一日、二回起こされた。
そのたびに流動食を取りながら、キャロン博士の質問に答えていた。
だが、朦朧《もうろう)としていて内容は覚えていなかった。
閉ざされた部屋で、一週間ほど熟睡と朦朧状態をくりかえした。
その日はカーテンが開けられ、窓から陽が差していた。
小鳥のさえずりも聞こえた。
「症状がよくなりましたので、家でゆっくり静養してください。薬を飲み忘れないように」
看護師に告げられ、ロビーにでてみると、窓際のソファに妻のエミリの姿があった。
迎えの車で自宅に戻ったが、症状はすこしも良くならなかった。
そればかりか、二日、三日と経つと、また眠れなくなった。
呼吸困難で喘ぎ、いっそう不安がつのった。
ジャマは汗で濡れ、朝までに三度も着替えた。
じつはワインスターは、効果のないプラシーボと呼ばれる偽薬《ぎやく)を飲まされていたのだ。アラン研究所は、研究対象となる入院患者を密かに募り、人間改造計画という極秘の研究に挑もうとしていたのである。
人間の精神を白紙状態に導き、そこに新たな情報を刷り込み、すべてを造り変えるという計画である。
研究には、アメリカのCIAの資金提供があった。
MK─ウルトラ計画』である。
人間を洗脳し、自由にコントロールできる術《すべ)を見つけようというのである。
3
アラン研究所に戻ったワインスターは、また一週間、薬で眠らされた。
そして快方に向かったとして、再び家に帰された。
だが、持たされた薬はやはり偽薬だった。
薬の禁断症状によるやるせない無力感にさいなまれ、症状は悪化し、研究所に戻りたがった。
「あなたは家に帰ると、また悪くなって戻ります。長期入院の必要があるようですな」
キャロン博士は、企みにはまったワインスターに宣告した。
博士は同じような方法で、すでに数人の患者を確保していた。
食事は流動食。トイレは特殊なパンツ。眠り続けるだけの漆黒《しっこく)の世界。
一週間なのか、二週間なのか、三週間なのか。
目覚めたときワインスターは、小さな丸椅子に腰をおろしていた。
向かい側のキャロン博士が、両肘をテーブルに突き、なにかを話しかけていた。
整った顔立ちの博士の金髪がまぶしかった。
その顔が突然くずれ、詰問調で問いかけてきた。
「あなたは事業に成功したようですが、ずいぶん人を騙してきましたね。あなたは、本当は悪人です。それでなかったら一介のセールスマンが、たった10年ほどで従業員を50人も雇える婦人服製造工場など、持てるはずがありません」
キャロン博士の目的は『その人間が、自分の信念を曲げ、なんでも認めるようになるかどうか』であった。