娘と蝶の都市伝説3
⦅あなたの次の目標は、野球で有名になることです。有名になってアメリカ中に名前が知られるんです⦆
ユキはぼんやりその声を聞いていた。
頭の中でだれかが呟いているような気がした。
なぜ有名にならなければならないのですか、と問いかけたかったが手段がなかった。
「ユキさん、あと五分で溜池の駅です」
運転席側にあるスタッフ用の席から、畑中が車内マイクで報告してきた。
外の景色は、東京の真っただ中だった。
高架線のハイウェイの左右すれすれに、ビルがおおいかぶさっている。
やがてバスは、ハイウエイから脇道に入った。
下降すると、地下鉄の駅の真ん前だった。
その駅から地下鉄に乗って、二駅で降りる。
駅の脇の一車線の坂道を歩いて登る。
坂をあがりきり、秦家の門をくぐった。
玄関のドアを開けた。
背を丸くした秦が姿をあらわした。
ユキは、秦の笑顔の片隅にかすかな陰りを見つけた。
「国立博物館で、湯川さんに会えたんですか?」
秦は、日焼けした顔で左右に首をふった。
2
「私は漢方薬専門の龍玉堂(りゅうぎょくどう)の経営コンサルタントです。今回、ネパールの山岳地帯に生薬(しょうやく)採取の調査に入りたいのですが、その地域に虎が出没するというので、あらかじめ湯川先生に意見をお伺にきました」
秦は上野の国立博物館に着くと、受付でそうに告げた。
とにかく、秘書でもいいから会って、湯川の情報を得たかった。
インターネットで調べてみると、虎についての著作が何冊かあった。
最新の著作は、ネパールの虎の生息環境などを調べたもので『標高三千メートルでの生息は可能か』などの副題がついていた。
秘書兼研究員の若い女性が待っていた。
滝川加奈子という名刺をもらった。
髪を短くカットし、白いブラウスが似合った。
秦は用意したネパールの地図をひろげ、偽の生薬採取地域を示した。
女性研究員は応えた。
「いままで虎がいるという噂とともに、足跡などの証拠もあったのですが、実際にはだれも姿を目撃していませんでした。しかし、数ヶ月前にヨーロッパの調査隊がついに録画に成功したんです。それを機に、どういう訳か、各地で次々と生息が確認されました」
説明する滝川の背後の壁には、研究室の地図が貼られている。
ヒマラヤ山脈のふもとの国、ネパールの地図の下側五分一ほどが、赤いマジックで囲まれていた。
「今見せてもらった秦さんの採取地域と重なりますので、出没地域の地名リストのコピーをさしあげます。でも実際の範囲はもっと広くなるかも知れません。その点は充分にご留意ください」
滝川は、英文で書かれた用紙を数枚手渡してくれた。
秦は感心したようにうなずきながら、部屋を見渡した。
「湯川先生には、以前もお世話になっているのですが、今はどちらなんでしょうか?」
思い出したように告げてみた。
「現在、お休みになっておられます」
滝川は、ぼそりと答えた。
「実は今回の件とは別に、個人的に用がありまして、何度か電話をさしあげたのですが、どうかなさったのでしょうか?」
滝川は息をのんだように、言葉に詰まった。
龍玉堂という漢方の薬屋の元経営者で、現在はコンサルタントということと、以前にもお世話になった、個人的に用があるという秦の言葉に、一瞬のとまどいのあと、吐露(とろ)するように口にした。
「デスクの上に『研究調査のため、急用ででかける』と書いた紙と三ヶ月間の休暇願の用紙がありました。パスポートもなくなっていました。以前にもたびたび急に外国にでかけていましたので、またかと思いました。博物館の上司たちは、半分あきらめています。もう一ヶ月ほど連絡がありません」
最後の文言が、秦には訴えるようなつぶやきに聞こえた。
湯川と知り合いと称する来客者の秦に、助けを求めているようにも感じた。
「先生のご自宅の方では、どうおっしゃっていらっしゃるんですか?」
秦は、ためらいながら訊いてみた。
「そのうち帰ってきます。放っておいてください、でした」
「奥さんがですか?」
「はい。いままでにも色々あったようでして」
唇の端に、はにかみの笑みが浮かぶ。そんな場合の意味が、女性関係を意味するようにも受け取れた。
「最近、先生になにか変わったようすが見受けられたんでしょうか?」
滝川は首をかしげ、ちょっと考えた。
短くカットした髪の下に、白い項がのぞいた。
「出張するすこし前に、アメリカから電話があってそわそわしていました」
「アメリカですか。失礼ですがそれ、さしつかえ
「たぶん、年代測定の会社です。ただしどのような用件なのか、私には分りません。現地調査をしていると、いろんな人が様々な物を持ちこんできます。民族器具から人の骨、珍しいという動物の骨、毛皮もあります。ときどき当たりがありますが、ほとんどは外れです」
秦がなにくわぬ顔で、あとを続けた。
「じつは私も、そういう外国の会社をときどき利用したいと考えているのですが、アメリカのその会社の名前とか、電話番号とかを教えていただけないでしょうか?」
「普段ですと、年代測定のようなものは私が手続きを取ります。でも今回はいつもの会社ではありませんでした。ノートやそれらしい書類をめくって探してみたのですが、先生の手帳の中なのか、該当する会社は見当たりませんでした」
「大変にあつかましいのですが、そういうことでしたら、博士の奥さんに会って、現在、博士がどちらにいらっしゃるのかを教えてもらえたらと思うのですが、いかがでしょうか。急な話ですが、どうしても個人的な用件で連絡を取りたいのです。自宅のほうに、ヒントぐらいは残しているかもしれません」
漢方薬、龍玉堂の元経営者ということで信用してくれたのか、秦の熱気に負けたのか、住所を紙に書いてくれた。
湯川の家は茨城県の筑波(つくば)にあった。東京から45分のベットタウンである。
奥さんは、大柄でアフロヘアのきれいな人だった。
「学術調査というのですが、女のところなのかどうかは私には分かりません。今回については勘(かん)ですが、女のところですね。女がどこにいるのかは、だいたい分かっています。私が留守のときに必要な資料を持ち、部屋を散らかし、あわててでていきました」
奥さんは、ふうん、という態度に終始しながら、その人の住所を教えてくれた。
秦はまた電車に乗って都内にもどり、日暮里(にっぽり)の女のマンションを探しあてた。
湯川をいちばんよく知っている女ですよ、と奥さ嘲笑(ちょうしょう)ぎみだった。
いつも午後の四時には帰るだろう、という。
名前とか歳とかを聞きたかったが、ありがとうございますと頭を下げ、急ぎ筑波の家をあとにした。
秦は教わったマンションのドアの前で、部屋の主を待った。
はたして四時を過ぎたとき、廊下に足音がした。
滝川加奈子だった。しかし、研究員の彼女は、今回の湯川の行動についてはほとんど知らなかった、とにかく急にいなくなってしまったのだ、と下を向いた。
3
東京ドームは満員だった。
外野席は一塁側も三塁側も、オールスター後の開戦を待ちわびたファンで埋まっていた。
ユキは、地下に設けられた室内の特別練習場で肩を慣らした。