娘と蝶の都市伝説1
1-3 わたしはだれ?
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車、足音、人々の話し声。遠くに木霊(こだま)す汽笛、夢の中か──。
そう、ずいぶん長い間、眠っていたような気がする。まだ、頭がぼんやりする。
気がついたら、全身が騒音に包まれていた。にょきにょき立ち並ぶ巨大なビル。
ユキコは、白い丸首のシャツにグレーのロングスカートだ。肩にポシェットを下げている。
ユキコはおかっぱ頭で振り返った。
背後をとおった三人連れの女性が、日本語を話していたのだ。
街には観光客とおぼしき外国人が大勢いた。
日本語を話した三人連れは、人にまぎれ、どこかに消えた。
「そうだ。わたしは麗江(リージャン)(れいこう)にいたんだ」
ユキコは、右肩から左の腰に下げていた豹の毛皮のポシェットを開けた。目についたのは中国の金(かね)百元の束だ。三つある。どうしたのか覚えていない。
ほかに、紐で首に飾れる数珠繋(じゅずつな)ぎになった青色の石。小さな皮の袋に入った黄色い金属。黒曜石(こくようせき)や火打ち石。
そして、一枚の小さな長四角の白い紙。文字が書かれている。
通る人に読んでもらったら、表には『龍玉堂(りゅうぎょくどう)漢方薬 ○○○○ 秦(はた) 周一(しゅういち)』と記され、日本の住所と電話番号が印刷されていた。
だが、その中国人はちゃんと読めなかった。
裏側には手書きの文字で『麗江新華HOTEL 電話518・088☆』と書かれていた。○○○○の文字は、あとで知ったのだが、コンサルタントとカタカナで書かれていたのだ。
「思いだした。わたしは秦さんと出会い、いっしょに麗江に行った。そのとき、道に迷わないようにって……」
買い物にいくユキコに、持っていた自分の名刺に書いてくれたものだ。日本語は秦がときどき口にしていて、その柔らかな響きをはっきり記憶していた。
ユキコは目を閉じた。
買い物にでたとき、すぐにぼっとなった。
次第に頭が熱くなり、そのまま電球が切れるときのように、ぷつんと記憶が途絶えた。
頭の中にいるなにかが、活動を開始しようともがいている感じだった。
そしてどこからともなく、声が聞こえてきた。どこかで聞いたような声だった。だが、だれなのかは分からない。
⦅目が覚めたら、大きな都市へいってください。そこで待っていてください⦆
命令ではなく、落ち着いた響きだった。
『はい、分かりました』わたしはなんの疑問も持たず、頭の中でそう応じていた。
あれからどうしたのか──。
ユキコは額に手を当て、南京東路(なんきんとうろ)の入り口にたたずんでいた。
肌の色も白く背の高い娘を、通る男たちがちらちら視線を投げかける。
「おい、ねえちゃん。気分でも悪いのか」
さっそく話しかけられた。肉付きのよい中年の男だった。中国人である。探るような目つきが、おれは悪者だよ、と自ら語っていた。
「あのう、ここはどこでしょうか?」
だれでもよかった。とにかく聞きたかった。
肌艶(はだつや)がよくない丸顔の男は、え? とおどろきの眼(まなこ)であたりを見回した。
「上海(シャンハイ)の外灘(ガイタン)ってところんだけど」
半信半疑の面持ち答える。
ところが娘は、もっと魂消(たまげ)た質問をした。
「上海って、どこにあるんですか?」
お上りさんなら、カモってやるぞと内心ほくそ笑んでいた男は、濁った目を見開いた。
男はあわててまばたき、色白の娘の顔を眺めなおした。
目は大きく顔立ちもよい。身なりは都会風だ。
「上海は、中国にあるんだけどな」
男は、からかわれているのかな、と訝(いぶか)りながら応じた。
ユキコが、なあんだ、とばかりにうなずく。
「あのな、ちょっと訊くけど、おねえちゃんはどこからきたんだい?」
気をとりなおし、男が訊ねる。
「麗江」
ユキコはさらりと答える。
「おい、おい、同じ中国じゃねえか。で、いつきたんだい?」
男はまだ半信半疑の面持ちだ。
「いつ、どうやってきたのか分からないんです」
ユキコは顔を曇らせた。
「おじさん、電話持ってる?」
眉根を寄せたまま不意に訊ねた。
ああ、と男はいぶかりながら、シャツの胸ポケットからケイタイを取りだした。
「518088☆。麗江新華HOTEL。龍玉堂(りゅうぎょくどう)の秦さんという人を呼びだしてください」
さっき見た名刺を諳んじていた。
「50元」
金銭に敏感な男は、娘とのトンチンカンなやりとりを払いのけ、手をだした。
ユキコはポシェットを開け、なかから紙幣をつまみだした。
男はユキコの目の前で、ケイタイのキイを押した。
ユキコはケイタイを受け取り、耳に当てた。
秦周一は、一ヶ月前にチエックアウトしていた。
一ヶ月……わたしはどこでなにをしていたんだろう。頭の中に、真っ白な空間がぱっと広がった。
どこかの町角に立ち⦅大きな都市にいきなさい⦆と、そんな声を聞いている自分がいた。
声は、からだの中心に存在する小さな点が、エネルギーを拡散させるかのように放射状に響いた。
そして、うん、そうしようと思っている自分がそこにいた。
自分でも不思議だった。
『大きな都市はどこですか』とあちこちで訊き回っている自分。
地域から出たことのない人達の容量を得ない答えに戸惑いながら、寄り道に寄り道を重ね、ついに上海にたどり着いたのである。
「ねえちゃん、助けが必要なら手を貸してやるぜ。おれは、劉(リュウ)ってんだ」
立ち話をする二人の背後を、観光客が通り過ぎる。
そのとき、どこからともなく、また日本語が聞こえた。
「ここに、日本人はたくさんいるんですか?」
「日本人は、この先の虹橋(ホンチャオ)という町に住んでいる。今はかなり少なくなったけど、そこには日本の食堂や喫茶店や学校まであって、日本人町って言われているんだ」
「もしかしたら、日本には上海よりもっと大きな都市があるんですか?」
にわかに浮かんだ問いかけだった。
「あるよ。ひょっとしたら、世界一かもしれねえな。東京だ。おれは行ったことないけど、行きたいっていう若いもんを、何人も世話してるぜ。パスポート持ってるのか?」
「なに? パスポートって?」
「おまえ、いったい……」
何者なんだ、という言葉を呑みこみ、劉はあらたに真顔になる。
そんな劉を尻目に、ユキコは川向こうに聳えるきらびやかな塔に目をやった。
「虹橋にはどうやっていくんですか?」
「そこの道の先に地下鉄10号線の駅がある。そこから水城路駅に行けばいい。さっき、ポシェットの中ちらっと見えたけど、ねえちゃんが持ってる青い石、どこで手に入れたんだ?」
いつだれに貰ったのか、ユキコにも記憶がなかった。
直径二センチほどのブルーの丸い玉が三つ、金の鎖で繋がっている。
「上海博物館にいってみろ。四階の中国古代玉器館だ。大きさも色艶もそっくりだぜ。間違いない。青玉(せいぎょく)っていうんだけど、おれはすっかり気に入って毎日のぞきにいって、偽物を作った。それで外国人に、内緒で売ってやるといって大儲けしたけど、警察に捕まってな。姉ちゃんも見事に騙されたね。本物が売り出されるなんて、ありえないからな」
劉は、えへへへと笑った。
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