娘と蝶の都市伝説1
男は、遠い故郷では長(おさ)の地位にあったが、娘をおもう気持ちが強く、もう少し、もう少しと後を追い、とうとうここまできてしまったのだ。故郷に残した妻や家族を忍んで涙を流したが、耐え忍んだ。
しかし氷は、張り詰めた山の寒気に包まれ、神の意志のごとく硬く、石の斧を弾き返えした。男は時を待ったが、いつしかそこで妻をめとり、村人になった』
「見つかった古文書にこう書かれているんだ。そして篆書(てんしょ)に書き換えられた三冊目の秦国雲南薬草書簡の裏表紙の文章の意味に、この一枚の古文書の記述が解答を与えてくれていたのだ。ほら、ここの落書き」
楊は積み重ねた三冊めの秦国雲南薬草書簡を取りだし、裏表紙を開いた。
そこには判甲(はんこう)でよく見かけるような四角い難しい字が、斜めに連なっていた。
「(今日、日が昇る東の遠い国をめざし、薬草書簡を携えて旅立った仲間の薬屋は、昔、悪魔のようになった自分の娘を追い、西からきた異民族の長の男の末裔(まつえい)だった。男は秦国の家臣として都の王に仕えていたが、国が滅びたので一旦故郷に戻り、新しい身の振り方を思案していたものである)と書かれている。これだけなら、ただの落書きだったが、いまようやくその意味するところが理解できたという訳だ」
楊は髯に包まれた口をつぐみ、秦を見詰めた。
「その男のさらなる末裔(まつえい)が、私だということですか?」
縄文末期(弥生時代)に日本に渡ったその男が、古文書を携えていたのだ。当時、漢字が使用されるようになり、古代に記された古文書は読めなくなっていただろう。だが末裔たちは、氷に閉じこめられた娘の伝聞を聞かされていて、いつしか娘が解放され日を信じていたに違いない。
そうだとすれば、秦は弥生時代からの祖先の目的を果たしたことになる。
ようするに洞窟で出逢った娘は、秦の大大大大大……おばあさんの可能性もでてくる。しかし、妻や娘の面影を残し、特に瞳の奥がブルーの娘はまるで祖先の血を受け継いだ四歳の雪子だった。
でも、そんなこと……ある訳がなかった。
なんだこれはと、頭が混乱した。
足元がふわっと宙に浮き、体全体がふらふらと左右に揺れた。
異次元の空間に、立ちすくんでいる気分だった。
「男はわしらの祖先の村の娘と結婚し、薬屋のその村で薬草学を身につけた。だからこの前もいったように、我が家と秦家は親類なんだよ」
楊の声が聞こえた。
「この新しい資料と落書きの内容に気づいたのは一週間ほど前で、日本の秦さんに連絡をしたほうがいいだろう、と考えていたとき、あなたから電話があったんだ。徳欽からだった」
莫大な時間を飛び越えた話に、秦は、うん、うん、とうなずく以外になかった。
信じるか信じないかの結論は後にするとして、とりあえず自分が抱いていた現実的な疑問を口にしてみた。
「雲南は少数民族の宝庫だと聞いたが、毛皮を着て、狩をするときに石を投げるというような民族はおりますか?」
「そんな民族、聞いたことないな。どんな毛皮を着ているんだ?」
「豹(ひょう)」
「雲南に豹なんていないだろう。なにか心当たりでもあるのか?」
「いや、ちょっと噂を聞いたもので」
その日は、用意してくれた新たな古文書と篆書(てんしょ)のコピーをもらい、ホテルに帰った。新たにでてきた古文書は、秦の古代の身分証明書のようなものだった。だが、だからと言って一連の物語を素直に信じるかどうかは別問題である。
買い物にいったユキコはまだ戻っていなかった。夜の八時をすぎていた。
秦は食事もせず、ユキコを待った。しかし、いつまでも帰らなかった。秦がでていった後、一度も部屋に戻っていないとホテルのフロントはいう。
十時になっても姿を見せない。あわてて商店街を探し回ったが、すでに店は扉を閉ざし、森閑(しんかん)としていた。
車を呼んで界隈を走ってもらった。しかし、どこにもユキコの姿はなかった。
やっと気がついた。一人で買い物になんか出すんじゃなかったと。バスに乗っていたとき、そとの景色を説明すると、うん、うん、と落ち着いた態度で応じたので、聡明(そうめい)な娘だからだいじょうぶと判断してしまったのだ。
その夜、ユキコはとうとう帰らなかった。眠れなかった。
次の日、思い切って多少の金銭を渡し、公安に頼んだ。昨夜は、地域にコソ泥以外、事件はなかったという。
あらためて行方を捜してもらったが、やはり見つからなかった。
パトカーも動員し、範囲を広げてもらった。だが、記憶喪失の中国娘と知ったとき、公安は気味悪がり、さっと引きあげた。
そのままホテルに部屋をとり、一人で探した。
それでも見つからず、決心し、バスに乗り、再び明永村まで引き返した。
ユキコがきたかどうかを村長に聞いたが、一緒にいた日本人女性は戻っていない、という返事だった。
洞窟にもいってみたが、中に人の気配はなかった。
塵(ごみ)捨て場にも新しい骨や果物の種はなかった。
また麗江にもどった。やはり見つからなかった。
秦は、明日子と雪子とユキコの三人をいっぺんに失ったような喪失感(そうしつかん)に襲われた。