娘と蝶の都市伝説1
ユキコは、虹橋(ほんちゃお)の日本人街地区をすこし外れた古い小さなホテルに部屋を借りた。
日本語が聞けるのがうれしかった。なめらかで柔らかな言葉が心地よかった。
虹橋をぶらついて、古北(クーペー)という町の一画で本屋を発見した。
あらゆる本がそろっていた。
その中の本棚の漫画雑誌をめくったとき、誰かに読んでもらえれば言葉の意味と文字が同時に覚えられる、と閃(ひらめ)いた。
日本人の客を待ったが、日本に興味のあるらしい中国人の若者ばかりだった。
「あのおやじさんに電話してみよう」
困ったときは電話しろと名刺を渡されたが、半分は本気にしていなかった。
公衆電話からかけてみた。
『外難(バンド)で会ったユキコですが』
『やっとかかってきたな。パスポートだろ』
『ちがいます。日本語を教えてくれる日本人を紹介してください。その人を虹橋の古北のコーヒーショップ、幸によこしてください。明日午前十時に店で待っています』
東京のほうが大きいと聞き、ユキコは上海に興味をなくした。
東京にいかなければと思った。
翌日、奥の四人掛けのテーブルを借り、コーヒーショップで日本人を待った。
時間になったとき、ジーンズ姿の女性が入ってきた。頭の上に、ワニ口のようなぎざぎざの付いたバンスクリップで髪をとめている。
上は白いワイシャツだ。すっぴんである。
ラフだが、爽やか感じのお姉さんだった。
「ユキコさんですか?」
ユキコより歳が少し上のようだった。
「テーブルの上に、漫画雑誌が二冊あるのですぐに分かりました」
一言一言がはっきり聞こえる、きれいな日本語だった。
「相原ひとみと申します」
相原はうながされ、ユキコの向かい側の椅子に腰を下した。
「では早速ですけど、ちょっと始めてみましょうか?」
とりあえずは、どの程度の能力があるのかが、知りたかった。
ところが、漫画を読んでみると、いちいちうなずくのだ。
覚えてしまったという態度だった。
相原は訊ねた。
「もしかしたらユキコさんは、一度聞いた言葉や文字は、すぐに覚えてしまうんですか?」
「はい、すぐ覚えます」
なんでもないように答える。
「覚えようという意識で言葉を聞くと、頭に入ってくるんです。遠い祖先からの遺伝のような気がします」
どういうことだろう、と相原はあっけにとられた。
半信半疑で、さらに試してみる。
すると、前ページの会話をすらすら淀みなく諳んじてみせた。
意味も絵で理解していた。
ほんとうかよ、と相原の頭が熱くなった。
漫画雑誌を三十冊ほど終了したとき、相原は日本語学校へいった。
N1(一級)の日本語の教科書を分けてもらった。
読み書きをふくめ、その教科書も一週間で終了した。
教える相原は熱に浮かされた。
上気し、ここ二週間を夢中で過ごした。
そんなすごい生徒になど、滅多にお目にかかれない。
興奮している相原に比べ、ユキコはすましている。
「あなたは不思議ですね」
聞いたのはユキコのほうだった。
レッスン終了の宣言をした直後だ。
「劉は外灘(バンド)の悪者でしょう。そんな人の仕事を、なんであなたのような日本人がお手伝いをしているんですか?」
クリップで頭の髪を結った相原は、なんだとばかり胸を張った。
『おい。ものすごい変な女に日本語を教えてくれねえか?』
劉から掛かってきた電話は、そう言った。
『変な女って、どんな人ですか。とにかく、まず歳が幾つぐらいだとか』
『あなたよりは二つ、三つ、若い。それで、上海の外灘に立っていて、いきなり、ここはどこ? っておれに訊きやがった。上海だ、と答えると、それはどこの国ですか? ってまた訊きやがった。
だから馬鹿かと思ったんだけど、そうじゃねえ。青みがかったきれいな瞳をして、可愛い。モデルみたく背も高い。雲南省の奥地、雪の山をいただく山村地域の出身らしいが、本人がよく覚えていない。
名前からして、もしかしたら日本人との混血かも知れなかったが、日本語はまったく喋れない。日本の東京にいきたいそうで、日本語を教えてくれる日本人を紹介しろ、と電話で言ってきてな』
人の気を引こうと、面白そうに話しているのかと相原は考えた。
『例の青玉の件は、劉さんが警察に捕まって裏で罰金払って、見事に解決したって言ってたよね。それ以上に面白いの?』
劉は、えへへへと笑う。
相原が初めてきた外国は、上海だった。三年前である。
上海博物館の中国古代玉器館で、青玉の美しさに見とれていた。
すると声をかけられた。館の職員と名乗る男だった。
同じものを内緒で二〇万円で売る、といわれたのだ。最後は三万円になった。
日本に帰って、それが偽物だと分かった。騙された日本人があちこちにいた。
相原はマスコミ志望だった。
大学の先輩の雑誌編集者から、ときどき軽い取材を頼まれ、アルバイトをしていた。よし、青玉事件の実態を解明してやれとばかり、外灘に乗り込んだ。
そして地域の警察に偽青玉の実物を見せた。
だが、劉という男が犯人だ、事件は解決した、とあっさり告げられた。
しかし外灘の川辺にいくと、劉は観光客相手に宝石や骨董類の偽物を堂々と売りつけていた。
偽物を売られた文句をいうと、騙される方が悪いに決まっているだろ、とにこにこしている。
この国に、日本人が考えるような規律や道徳心を求めるのは無理であり、みんなが信号を守って横断歩道をわたる社会は永遠にやってこない、と相原は悟った。
相原は、青玉の取材を中心に劉に会っているうち、しだいに親密になった。
そんなとき、日本にいく中国人に日本語を教えてやってくれないか、と頼まれたのだ。もちろん、生徒たちは初めから不法滞在予定者だ。
面白そうなので、ルポになると二つ返事で引き受けた。
「わたしは劉の部下でもないし、劉の仕事を本気で手伝っている訳でもないんですよ。これからのわたしの話を、あなたはだれにも喋らないと約束できますか?」
相原は声を潜めた。
なんだろう、とユキコは相原に目で問いかけた。
「実はわたしは、ジャーナリストなのです。事件や不思議なできごとにぶつかると、いろいろ調べ、事実を解明し、記事にします。いま劉と親しくしているのは、悪を働く組織を調べ、記事にするためなんです。こういうやりかたを潜入取材といいます」
「なにか不思議なことがあると、調べるんですね?」
「もちろんです。内容によりますけどね」
「だったら、わたしについて調べてくれますか。わたし、ほんとうは自分がだれなのか分からないんです。気が付いたら、梅里雪山の麓にある明永村に近い氷河の裏路の洞窟の中にいたんです」
二人の会話は、最後には日本語になっていた。
どこから日本語になっていたのかが気づかないくらい、それは自然な成り行きだった。