娘と蝶の都市伝説1
『この女性は記憶をなくしています。梅里雪山の麓(ふもと)で、毛皮を着て石を投げ、鳥を狩っていました。明永村の村長に聞いたら、ここに連れていけと言うのできました』と報告し、着ていた毛皮をザックからだす。
警官は即座に娘を保護するだろう。それで娘は故郷に帰れる。
そのときは秦もついていき、村の伝統の生薬を見せてもらう。
娘の居場所と安全が確認できれば、いつでもまた会いにいける。
平屋の建物の棟に『公安』と書かれた看板があった。
POLISEの横文字も並んでいた。
入口に五十過ぎの男が立っていた。日本の警官のような薄いブルーのシャツを着ている。
「この地方に、毛皮を着て石で狩をする民族がおりますか?」
突然の質問に、中年の警官は、え? と眉を寄せた。
「あなたたち、どこからきたの?」
「日本からです」
パスポートを見せろ、といわれたら娘をどう説明しようかと身構えたが、警官はふふと笑った。
「雪男なら見たという人がいるけど、そういう話は聞かないね。知りたいのなら、昆明(こんめい)にいくといい。大きな博物館がある。雲南民族村というものもあって、少数民族を専門に研究している学者もいる」
昆明は、雲南州の州都だ。
「バスは十一時にでる」
警官は、急に怖い顔になった。早くいけ、と告げているのだった。
ありがとう、と秦が頭を下げると、娘も真似をした。
よし、昆明にいこう、と秦は決心し、通りをバスターミナルのほうに向かった。途中、麗江(れいこう)の薬屋のところにも寄ってみようと、雑貨屋の店にあった電話で連絡してみた。
楊(よう)老人は元気だった。徳欽にいると言うと、すぐこい、と興奮した口調で告げた。なんだ、と聞こうとしたらぷつんと切れた。
「これから昆明の途中の麗江という町にいってみる。どうだ、まだ、名前、思いださないか」
娘は首を傾げた。
「ゆきこ、がいいです」
ぽつりとつぶやく。
いったいどこからきたのか。家族はどこにいるのか。
この娘の正体を見届けたい、という気持が湧く。
当分のあいだ、名前を呼ぶときはユキコとカタカナにする。
最後はどうなるか分からなかったが、成り行きに任せることにした。
四歳の雪子が大人になって目の前に現れたと思えば、うれしくもあった。
バスターミナルまで歩いた。
麗江にいくのには香格里拉(シャングリラ)行きに乗り、そこで乗り換える。徳欽から香格里拉までは五時間半。
そこから麗江までは四時間。かなりの長旅だ。
シャングリラはイギリスのジェイムズ・ビルトンの小説『失われた地平線』からとった地名である。
3
麗江には夕方に着いた。
何度かきている麗江新華ホテルに部屋をとった。
秦がシャワーでからだを流していると、ユキコが入ってきた。
平然とした態度につられ、秦も落ち着いてからだの洗い方を教えた。
あとからでてきたユキコが着替え終えたとき、秦はユキコにお金をわたした。
「私はこれから知り合いのところにいってくる。あなたは町で自分の好きな衣服を買ってみてください。どう、買い物、一人でやってみる?」
バスの中で、あれなに、あれなに、とこの世を初めて見る子供のように問いかけた。ときどき出現する町を眺めながら、都会の生活についても話をした。うん、うん、とうなずき、だいたいを理解したようだった。
「やる。きれいな服、着てみたかった。ありがとう」
うれしそうだった。やはり若い娘である。
だいじょうぶかなと思ったが、利口そうだから間違いもないだろうと考えた。すぐ来いと言っていた楊の言葉も気になっていた。
「終わったらここに帰ってきなさい。私は一時間か二時間後に部屋にもどる」
秦はホテルの前でユキコと別れた。
雲南薬堂の主、楊の黒い髯は、一年ほどで半分が白くなっていた。
「わしは85歳になった。いつ死んでもおかしくない。だからすぐこい、と言ったんだ」
ははは、と元気いっぱいだ。
チークのテーブルの上には、古器でも納めてありそうな古びた褐色の箱が置かれていた。
「徳欽から電話ということは、行ったんだろう、梅里雪山の明永村に」
楊は、陽焼けした不精髭の秦の顔を面白そうにながめた。
「行ってきました。退職して時間ができたもので」
「それで氷漬けの女性はいましたか?」
梅里雪山はわれわれの故郷だ、といっておきながら第三者のような茶化した口ぶりだった。
秦は、まさかという真剣な顏で左右に首をふった。
氷漬けではない女性ならいましたよ、と言いたかったが控えた。
「ところで文字以前の歴史は、代々言い伝えで記憶されるのだろうが、語られるのはよほど重要な物語か興味のある物語だけなんですな」
楊が眉間に皺をよせ、真顔で切りだした。
「伝達手段が記憶しかないとしたら、物事をぱっと覚えてしまう特殊な人間がいたのかもしれない」
秦は、まるでユキコみたいじゃないかと思った。
「もしそうなら文字がなくても、千年も二千年も語り継げられるのかもしれない。現代医学では説明できない漢方という魔法のような薬を、いつだれがどうやって発展させてきたのかについて、わしもいろいろ調べた。とにかく言い伝えの時代をふくめ、漢方には想像もできない長い時間がかかっているんだ。さあて」
楊は、テーブルの上の古い木箱に手をのばした。
蓋(ふた)を開けると、中に入っていたのは以前にも見た秦国雲南薬草書簡だった。
「実は、わしも半信半疑でこの箱の底を探ってみた」
楊は箱に入った五冊の秦国雲南薬草書簡を取りだし、テーブルの上に置いた。そして秦に底が見えるように箱を傾けた。
「おどろいたね。合わさった二枚の底板の間に、挟まっていたんだ。それも、秦さんの古文書の文字と同じだった」
楊はいささか興奮の面持ちで箱の底板を外した。
そして二枚の板の隙間から、古びた一枚のよれよれの紙をとりだした。
たしかに秦の古文書と同じ文字がかすれて並んでいた。
「ここになんて書いてあったとおもう?」
押し殺した声だった
自分に関係があるんだな、と秦は楊の意図を受けとめた。
楊が、んっと咳払いをし、別紙に書き出した傍らの翻訳した文章を読みはじめた。
『この前、面白そうな伝聞を忘れないうちに書き留めておこうと、若い娘がやってきて洞窟の中に入っていった話をしたが、話し忘れたことがあるのでここに追加しておく。娘が氷の洞窟に閉じ込められたあと、見知らぬ男がやってきてこう言った。
(おれは行方不明になった娘を探し、西の国からきた。道々噂を聞いたが、娘は魔法にかけられ、いつのまにかとんでもない悪魔のようになっていた。娘と親しくしたネアンデルタール人はみんな具合が悪くなり、この世から消えてしまったのだ。娘の母親はネアンデルタール人だったが、おれはホモサピエンスだったので、どうやら難を逃れたようだが、とにかく、なんとしてもそんな娘を助けねばと跡を追い、とうとうここまできてしまった。
だが、娘は氷の洞窟に入っていき、閉じ込められてしまった。洞窟は深く、氷は石よりも固かった。だからおれは、氷が融けて娘の亡骸(なきがら)を自分の手で弔(ともら)うまで、この村に住んで時を待つことにした)そう言って男はこの村に住みついた。