娘と蝶の都市伝説1
1-2 娘と一緒に
1
その日は、ほかにもまだ洞窟があるか、調べるつもりだった。
娘はいっしょに探すという。
岩山の急斜面を歩くのに毛皮はじゃまのような気がしたので、着替えを提案した。
秦がザックから取りだしたセーターと下着、ヤッケを娘は受け取った。
そして前を隠すような仕草で着替えた。
無駄肉のない筋肉質の体だった。ちらりと見えた尻は、くりっと丸く引きしまっている。冷たい渓流(けいりゅう)でからだを洗っていたのか、肌には艶(つや)があり、清潔そうだった。
『毛皮の衣をまとい、背丈はすらりとし、頭はわれわれよりも小さめで、手足も長かった。筋肉で引きしまり、しっかりした体つきだった』
古文書(こもんじょ)の一文が頭に浮かんだ。
娘が着替えているあいだ、秦は毛皮を引き寄せ、手に取った。
毛皮からは、古(いにしえ)の爽(さわ)やかな匂いがした。
柔らかく滑らかで、羽毛のごとく軽やかだった。豹のような模様である。たたむと空気が抜け、小さくなった。
これ、しまっておくよ、とザックの中に毛皮をおしこんだ。
娘は紺のヤッケを着終えていた。172センチの秦の衣服は、160センチちょっとの大きさの娘には多少だぶつき気味だった。
でもなんとか着られそうだった。
秦はザックの奥から、さらに予備のキャラバンシューズを取りだした。そして厚手の靴下を二枚重ね、きつく紐をしめ、娘の足をおさめた。
ヤッケを着、靴をはいた娘は、完全な都会人だった。
秦は四歳の成長した雪子の姿を見ているようで、涙がでそうになった。
事情を知らぬ他人が見たら、仲のよい父と娘のトレッキングだと思うだろう。
それから数時間、斜面の大岩の陰や襞(ひだ)になった壁の奥を確かめた。
洞窟は他のどこにもなかった。
探索中、娘についていろいろ知ろうとしたが、答えはなにを訊いても『分からない』だった。
答えるとき、とまどったような悲しい目をするので、その日はそれ以上は控えた。
陽が陰らないうちテントを張り、食事をすませたかった。
斜面をくだり、洞窟のすぐ下の平らな岩場にテントを建てた。
「そこで火を焚(た)いて、食事を作ろう」
「じゃあ、わたしも用意します」
娘は岩陰に置いてあった鳥の首をもち、瓦礫場(がれば)の小川のほうに向かった。
秦も小川に水を汲みにいった。
小川の岸の所々には、上流から運ばれてきた這松(はいまつ)の類の枝や枯れ木が散っていた。
娘が小川の縁にしゃがんでいた。
腕をまくり、岩の上に羽を毟った鳥を置き、小さな黒い石の包丁で腹を裂いていた。黒曜石(こくようせき)だった。ポシェットにしまってあったものらしい。
娘のわきには、小石を掘った窪みがあった。
中に骨やごみなどが積もっていた。木の実の種、胡桃(くるみ)の殻(から)や玉蜀黍(とうもろこし)の芯もある。
「これ、全部あなたが捨てたの?」
「ここは塵捨(ごみす)て場です」
「木の実や、胡桃や玉蜀黍はどこから取ってきたの?」
「下の林にいけばいっぱいあります。玉蜀黍も野生のものです」
洞窟内は清潔だった。食べかすなどはここに捨てていたのだ。
山の空が灰色に変わり、あたりが薄暮(はくぼ)におおわれた。
二人はテントの前にもどった。
秦はコンロに火をつけ、娘がコンロの火を木の枝で移し、焚き火で鳥肉を焼いた。石を投げて捕まえた獲物だ。秦はコンロに鍋をかけ、湯を沸かした。ラーメンを作るのだ。
「名前思い出したかい?」
赤い炎を見つめる娘に、秦が訊ねた。
「ゆきこ、でいいです」
顔をあげた娘が答えた。唇をきゅうっと結び、また悲しそうな顔をした。
「ゆきこ、は私の子供の名前だよ」
「でも、そう呼びました。ほかの名前、思いつきません。ゆきこがいいです」
娘は、か細い声で告げ、赤い炎を見つめた。
その瞳に透きとおった泪がふくらんだ。
どこからきたのか、なぜ洞窟にいたのか、自分の名前がなんだったのかが答えられず、困っていたのだ。
そのようすが妻の明日子、四歳の雪子と重なる。
この娘を助けてやらなければ、という気持がこみあげる。
「あなたの部族は巧みに石を投げ、獲物を捕まえ、そして動物の毛皮を着て生活しているんですね?」
人知れず、密かに暮らしている少数民族なのか。石を投げて飛ぶ鳥を落とす技にはおどろかされた。
投石で狩りをする部族がいるのなら、ぜひともその村を訪れてみたかった。
世の中から隔離している部族は、たいてい独自の薬草を持っているものである。
「石を投げ、狩りをする技はだれに習ったの?」
娘の答えは、やはり分からないだった。
朝、秦が目を覚ますと、ヤッケを着た娘が隣に丸まっていた。
昨夜は洞窟内の自分の寝床に戻ったはずだ。
以降の三日間、娘は秦のテントで眠った。
秦は、四歳の娘が隣ですやすや眠っている安心感で見守った。頼られている自分が嬉しかった。
秦は念入りに周辺を探した。
食料は三日分を用意してあったが、娘が時々捕まえる鳥で、二人分をなんとか間に合せた。
娘は百発百中、目にも鮮やかな直球で鳥を仕留めた。
手を見せてもらったが、石で狩りをする生活をしているせいか、指が長い。
石が握りやすいのだ。雲南地方で、小石を巧みに使って狩りをする少数民族がいるのなら話題になるはずだが、噂は耳にしなかった。
四日めの朝、荷物をかたづけ、二人は瓦礫場(がれば)を明永村のほうに下りていった。
娘の持ち物は、豹皮(ひょうがわ)のポシェットだけだった。
2
村長の名前はガマツリ。チベット人である。
最初にこの村にきたとき、秦の相手をしてくれた男だ。
「いくらなんでも、そんな石器時代の暮らしをしている民族なんていませんよ。で、その豹柄(ひょうがら)の毛皮を着た石投げの名人は、どこにいるんですか?」
私の後ろにいるよ、と言いそうになったが、口をつぐんだ。
「チベット自治区から、山を越えてやってきたんじぁないかなあ」
秦は、梅里雪山(ばいりせつざん)の白い峰を仰いだ。
雪崩(なだれ)の遭難事故があった後、京都大学の日本人関係者が何度もやってきた。そして氷河の流れの中から、日本人や共に頂を目指した中国人の遺体や装備品の一部を回収した。そのせいか、日本人には親し気だった。
「でもチベットには、山奥に山岳民族がたくさんいるでしょう?」
「気になるんだったら、徳欽(ダーチン)の公安に行って報告してみてください。ほかにも目撃者がいるのかもしれません。そちらの女性は助手の方ですか。いつお見えになったのですか?」
村長のガマツリは、赤銅色(せきどうしょく)の顔を横にずらし、秦の背後をのぞいた。
秦と同じヤッケを着ていたので一緒の仲間と見間違われたのだ。公安とは警察のことである。
「私が着いたすぐあとです。現地の確認調査は終わりましたが、またくるかもしれません」
秦は娘を連れ、徳欽へいく決心をした。
明永村の、ぼろぼろの自家用白タクシーに乗った。
車が走りだすと、娘は運転席の背もたれを両手で掴み、睫毛をしっかり閉じた。車に乗るのはじめてのようだった。
車で三十分。徳欽は中心地にモルタルの建物が並ぶ、そっけない田舎町である。
公安の警官にはどう話せばいいのか。