娘と蝶の都市伝説1
「いいえ。下の村にいったとき、みんなが話していたので、覚えたんです。いつも見つからないように物陰に隠れ、会話を聞いていました。聞けばわたし、すぐに覚えます」
そうではない、もともと中国語を話していたので、すぐ頭に入っただけだ。
娘は獣の毛皮を着ていた。靴も皮だ。毛皮のポシェットを膝の上に置いている。
「あなたはその毛皮を着て、氷の中で眠っていたんじゃないだろうね」
あり得ないと思いながらも、訊いてみた。
「さあ……」
口をつぐんだ娘の横顔には、深い孤独の陰があった。
「気がついたらここにいたんです。中のほうが安全だから、ここで待っていたんです」
待っていたという言葉に、過去の記憶が波のように襲いかかる。
あのとき縦走などせず、熊の縫いぐるみを持って東京に帰っていたら……。
いや、今はそういう話ではない。
「待っているって、だれをですか?」
青味をおびた娘の目が、とまどってまばたく。
「もしかしたら、あなたかもしれません。最初にきた人です」
「私? 最初にきた人? その最初の人がきたらどうするつもりなの?」
「分かりません。きっと二人で外にでていくでしょう」
「それなら、外にでよう。一緒にいきますか?」
訳の分からない現実に、秦は一刻も早く明るい外に逃げだしたかった。
娘は、はいと答え、ライトの中で膝をくずした。
娘は意外に背丈が高く、体つきもしっかりしていた。
頭のてっぺんが、身長一七二センチの秦の額まであった。
頬の色も、この地方では見かけない白さだ。
荷物は肩に掛けた小さな袋──ポシェットだけだった。
座った場所には厚く枯れ草が重ねられていた。
そしてその上に、四角い筵(むしろ)がきちんと敷かれていた。
辺りにゴミは散らしていない。
躾(しつけ)られて育っているという印象が、秦をすこしばかり安心させた。
秦と娘は洞窟の入り口に立った。
娘は、四歳の雪子が成人したときの姿を想像させた。
瞳には、間違いなくかすかに青味があったのだ。
洞窟からでてきた二人の頭上を、一羽の鳥が横切った。
娘がさっとかがみこみ、小石を拾った。
「やっ」
素早く投げる。
小石が一直線、鳥をめがけ矢のように飛んだ。
鳥は翼をばたつかせ、すぐ先の岩場の斜面に落ちた。
「焼いてたべます」
呆然(ぼうぜん)と見守る秦に、娘はなにごともなかったように告げた。