娘と蝶の都市伝説1
遠い時代に一人の娘がやってきて、この洞窟に入った。
その娘は、迎えを待っているとも言った。
迎えとは自分じゃないだろうな、と腹這った態勢から両手を突いてからだを起こした。
入口からのぞいた限りでは、凍っていないようだった。
「いくぞ」
胸騒ぎを振り切るように、再びつぶやく。
秦は瓦礫(がれき)の縁を越え、内部に踏み込んだ。
ヤッケを着た全身が、冷気に包まれた。
遠い時代の空気が、両耳に触れたような気がした。
背中のザックを足もとにおろし、用意してきたパワーライトを取りだした。
黒い岩盤が筒状に伸びている。内部の高さは身長の二倍ほどだ。
下に水は溜まっていない。
一歩、二歩と歩きだした。
天井も左右の壁もしっかりしている。崩れた跡はない。
奥のほうがまだ氷っているとしたら、氷漬けの女は氷の中に横たわっているのではないのか──ありえないとは分かっていても、そんな光景が目に浮かんだ。
ライトを左右にふり、壁際を照らした。湿り気のある黒っぽい岩が光った。
なにもない。地元の人たちも関心を示さないどこにでもあるただの洞窟だ。
三〇メートルもきただろうか。壁がゆるやかに右に曲がっていた。
秦の妻は二八歳の若さで病死し、残されたたった一人の娘は四歳のとき、事故で亡くなった。それ以来、秦は一人暮らしだ。
洞窟の黒い壁に、遠い日の妻の顔が浮んだ。
「久しぶりだな……」
秦は、つぶやいてみた。
「例の古文書に誘われて、とうとうここまできてしまったよ。期待に反した内容だったけど、どういう所かなと思ってな」
そう話しかけると、明日子が微笑んでくれたような気がした。
からだの芯の力が抜け、緊張感がほぐれた。
カーブに沿って、二〇メートルもきただろうか。
壁や足元に氷結の気配はない。左右や天井を照らすライトを前方に向けてみる。
光の帯が、闇のなかで円錐形(えんすいけい)にのびる。
どうやら洞窟は、五〇メートルほどで終わっていそうだった。
冷気がしっかりあたりに漂っている。
奥は最近まで氷の世界だったような気配だ。
しかし、アイスウーマンも秦家の宝物の気配もない、ただの古い洞窟だった。
「え?」
洞窟に自分のおどろき声が木霊した。
腰を落とし、ぶるんと膝と顎を震わせた。
あわててライトを戻した。そこに一人の娘がいたのだ。
髪を昔の小学生のように額にそろえ、筵(むしろ)のようなものを敷いて座っていた。
真っ暗な空間にたった一人、両手を行儀よく膝の上に乗せていた。そして灯りをともす秦のほうに穏やかな視線を向け、微みを浮かべていた。
「おお……」
秦は再び声をもらした。
衝撃が全身にほとばしった。
今度は、しっかりと封印していたはずの四歳の雪子の思い出だった。
秦は、両眼に閃光(せんこう)を浴びたように目がくらんだ。
5
三〇歳を過ぎたある日、秦は登山を計画した。
四歳の娘の雪子には、知り合いのおばさんと仲良く留守番をしていてくれ、と告げた。
すると一人娘の雪子が、母の形見であり、お守り兼宝物でもあった熊の縫いぐるみを手渡してきた。
大人の手の平に納まる小さな人形だった。
お守りを兼ね、いつも持ち歩いていたため、毛並みのある生地の表面はかすれ、熊だか狸(たぬき)だか分からない姿になっていた。
妻の明日子は雪子が二歳のとき、世を去った。
急性の病だった。妻を失ってから初めての登山だった。
「これは、雪子を守ってくれている大事な人形だ。あなたが持ってなきゃだめだ」
しかし背伸びをし、下からけんめいに人形を差しだした。
「これ、もっていって。ごぶじで」
澄んだ瞳に、揺るぎはなかった。
その瞳の奥が、かすかにブルーがかっている。
妻のほうにも秦のほうにも、そんな色の目の人はいない。
生まれた病院の先生は、遠い過去の遺伝子が、ふいに現れたのだと説明した。
「よし、持っていこう。もし雪子になにかがあったら、熊さんといっしょにすぐに助けにいくからな」
久しぶりの山はすがすがしかった。
狙いどおり、一気にリフレシュした。
予定した山荘で一泊したその夜、尾根を登る自分の姿を、かすかに青味を帯びた二つの瞳が頭上の空間から見詰めていた。
秦は蒲団の中だった。瞳には悲しい色があふれていた。雪子だった。
『どうした? なんでそんな目で見る』秦は、山小屋の闇の天井に目を凝らした。しかし登山の疲れですぐ、睡魔(すいま)に襲われた。
翌朝、目覚めてみるとアルプスの山々は爽快だった。
天高く澄んだ空が、心身を一気に吸い上げた。
一人、天空の孤高(ここう)の回路を歩む快感。
小さな峰を縦走(じゅうそう)し、山小屋でもう一泊した。
次の日、昼過ぎに予定の地点で山を下り、麓(ふもと)の駅に着いた。
家に電話をかけたとき、雪子の事故を知った。
「しまった」
秦は、ザックの後ろに付けていたお守りを外し、上着の内ポケットにしまいこんだ。
頼む、お守りを届けるから、なんとか持ちこたえていてくれ。
なにかがあったら助けにいくって約束したんだからな。
夕方、東京に着いた。タクシーで病院に駆けつけた。
熊の人形を手に登山の恰好のまま、案内された病室に飛びこんだ。
雪子の顔には白い布が掛けられていた。
大通りにでて、車に轢かれたのだ。
布を外すと、仏陀(ぶっだ)のごとく薄目を開け、微笑(ほほえ)んでいた。
生命の失せたその瞳には、白い膜ができていた。
膜の奥に、薄くブルーの色が澱(よど)んでいた。
そして、枕もとのメモ用紙には、つたない文字が連なっていた。
『お と う さ ん は や く た す け に き て』
病院に運ばれたとき、山にいる父に届くとおもい、苦しみながら看護婦さんに助けられ、覚えたての字で必死に書いたのだ。
秦はザックを背にしたまま、床に膝をついて泣いた。
6
「雪子……」
だれだ、というべきところを、そう口にしていた。
無意識のうちのつぶやきだった。
幼い雪子と同じように、前髪を額のところに揃えている。
そこにそっと座っている姿も含め、面影が雪子そのものだった。
「はい」
娘が、心持ち頭をもたげた。落ち着きのある、穏やかな中国語の返事だった。
光の束のなかで、娘も秦を見返した。
妻の明日子は、病気だったから仕方がない。
だが雪子は──と、それから三十余年になろうとしている今でも、悔やむ気持ちがふいに頭に浮かぶ。
「あなたは……こんなところで、なにをしているんですか?」
秦は、やっと中国語で話しかけた。
「分かりません」
娘は首を傾げた。澄んだ柔らかな声だった。
中国人にもチベット人にも見えない。
いや、ここにはたくさんの少数民族が住んでいる。
麓のどこかの村の娘が、洞窟に迷いこんだのか。
突然の出会いだったが、落ち着いた娘の態度につられ、秦も平常心を保った。
娘は瞳をライトに反射させ、瞬いた。
瞬間、秦の胸にふたたび衝撃が走った。
その瞳の奥に、淡いブルーの色が反射したのだ。
叫びそうになる喉に手をあて、こらえた。
「あなたは中国人だ。中国語を話しているじゃないか」
秦は衝撃を自ら否定しようとした。