娘と蝶の都市伝説1
薬草の仕入れを兼ね、秦家の祖父も父もその山の地図を携え、中国に渡った。しかし、なにも掴めなかった。
山の地図があっても、雲南省(うんなんしょう)は日本とほぼ同じ大きさの見渡すかぎりの山国である。
祖父や父は日本や中国の文化研究所などに問い合わせ、写真も送って調べていた。
もちろん、懐に古文書(こもんじょ)のコピーを忍ばせ、何度も雲南省にでむいた。
昔と違い、いまは雲南省全体にバスが走っていた。
都市と都市を結び、飛行機も飛んでいた。
雲南省の漢方薬関係の問屋や店を廻ったおかげで、秦は独自の薬も手に入れた。
同時に何種類もの中国語も覚えた。
だが古文書の方は、だれに見せても首を振るばかりだった。
そして旅立つ前に妻と娘に誓ったとおり、ついに、一人の老書道家と出会ったのである。
雲南省の古い交易都市、麗江(れいこう)の旧市街地、緑茶取引で栄華を誇った古城の町だった。
3
古城には、現在も使われているトンパという象形文字があった。
地元で信仰されているトンパ経の経典の絵文字である。
同時に書道家も多く、旧民族が残したと思われる文字を独自で調べている研究家もいた。
老書道家は、取引先の知人の紹介だった。
本業はやはり代々の薬屋で、トンパ文字とは別に、古代民族が残した象形文字を調べていた。
店の名前は雲南薬堂。主の老書道家が店舗を兼ねた一階の板敷の客間で秦を待っていた。
年寄り臭さのない、黒い顎髯(あごひげ)を生やした骨の太そうな老人だった。
「知人から連絡がありました。どんな古文書をお持ちでしょうか。さあ、見せてください」
待ち遠しさを表すように、老書道家はごつごつした十本の指をそろえ、両手の平をさしのべた。
秦もつられたように、上着の内ポケットから折り畳んだ用紙をあわてて取りだした。原書のコピーである。
コピー用紙を手にしたとたん、主は、あっと口を開けた。
「あなた、これを、どこで?」
「秦国雲南薬草書簡という書物と一緒に、私の祖先が残してくれたものです」
「秦国雲南薬草書簡だって?」
黄色い目を大きく見開いた。
「その書簡は何冊ありました?」
「一冊ですが」
「どんな文字で書かれていました?」
「漢字でした。本とは別に、その紙が本を収めた木の箱の底に入っていました」
「その書簡、今お持ちですか?」
「日本の私の店の金庫にしまってあります」
その答えを聞き終えるや、老書道家はちょっと待ってくれと、席を立った。
大股で店舗兼客間を横切り、隅の急階段を登っていった。
息つく間もなく、五冊の本を抱え、戻ってきた。
「あなたが持っているのは、これですか?」
席に着くと同時に、テーブルの上に本を並べ、そのうちの一冊をさしだした。
秦家の秘蔵の秦国雲南薬草書簡とそっくり同じものだった。
手に取り、裏表紙をめくって確かめたが、秦家のような説明文は記されていなかった。
「五冊あります。その時代時代の本です。新しい時代がきたときに、新しい情報を付け加え、その時代の文字で書き直してあるんです。もちろん五冊とも写本です。その中の、いちばん古い書簡がこれです。この書簡に使われている文字が、あなたのその文書(もんじょ)に使われている古代文字なのです。
いちばん古い書簡といちばん新しい書簡を比べれば、古代文字が解読できます。でも、すらすらとは解けません。一冊めと五冊めが同じという訳ではないんです。明日の昼までにやっておきましょう。ところで、あなたは間違いなく我々の血縁です。秦国の都からは遠かったのですが、雲南の薬草医の村の噂を聞いた始皇帝(しこうてい)に召抱(めしかか)えられたのでしょう。秦国が滅びた後、日本に渡ったんですな」
書道家は、いちばん古い一冊、古代文字で書かれた書簡のページをめくり、秦に見せてくれた。
書道家は、楊正寧(ようせいねい)という名前だった。
秦と楊は、三千年余ぶりかでの再会の握手をした。
日本では稲作が始まり、すでに弥生文化が誕生していた。
そんな時期に、大陸から秦周一の祖先が渡来したのだ。
遣隋使(けんずいし)、遣唐使(けんとうし)の時代でも船の航海は命がけだった。
どのような旅だったのかは不明である。とにかく困難を乗り越え、海を渡ったのだ。
4
明永村(みんえいむら)は、標高二千メートルほどの谷にあった。
梅里雪山(ばいりせつざん)が造りだす明永氷河の河口の村である。
三月半ばだったが、熱帯のミャンマーに近く、麓(ふもと)の気候はやや温暖だ。
村の周囲は濃い緑におおわれ、それぞれの季節には、胡桃(くるみ)、梨、林檎(りんご)、桃、李(すもも)などが実をつける。
所どころ、見たこともない高山植物が花を咲かせている。
日本からははるか遠い、秦の祖先が暮らしていたとおぼしき山の村ではあったが、あまりにも歴史が古く、感慨の持ちようがなかった。
村長に挨拶をし、地図を見せ、場所を確認した。
「わざわざそんな所にいく人は、誰もいません。その洞窟は、内部が氷っています。もっとも少し前の話ですけど」
無精髭(ぶしょうひげ)にトレッキング姿の秦を、村人たちが無言で見送った。
生薬(しょうやく)の商売をしている秦は、私的な生薬調査を兼ね、遊び半分できたのでガイドはいらないと断ってあった。
秦は正規の観光の道からはずれ、地図のとおり脇路に入った。急な登りである。
やがて足もとが小石状になり、ざくざくと音をたてだした。
その足音が重なって聞こえた。懐かしさが胸にこみあげた。
若かった妻の明日子と二人、何度そんなふうに連れだって山路を歩いたか。
彼女は山女(やまおんな)だった。
知り合ったとき、若いくせにかなりの登山歴だった。秦も登山に熱中した。
巡り合った、たった一人の女性だった。
妻を思い出すと、やるせなさで心が震えた。
ずっと一緒に暮らしていたかった。だが、それは叶わなかった。
明日子が口ずさむ澄んだ歌声が聞こえてきた。
『いつかある日 山で死んだら 古い山の友に 伝えてくれ……』
振り返ってみた。もちろんだれもいない。
「そうだよな」
眼下には森が広がり、彼方には、低く連なる山々の稜線(りょうせん)。梅里雪山は雲南省のはずれにある。すぐ隣はチベットだ。
秦は地図をだし、確認した。
その谷の奥の左側、壁の下に洞窟があるはずだ。
目を凝らし、ゆっくり歩む。
意外にも、あっさり発見することができた。
「あっ、あった……」
声をあげていた。
村人の説明のとおりだった。崖の下に、瓦礫(がれき)に半分埋もれた穴が口を開けていた。
遠い昔、だれがどのように書き伝えてきたのか、地図はいまもぴったり洞窟の場所を示していたのだ。
まるで秦を誘っているかのような×印だった。
胸がときめいた。冗談半分で父が言っていたように、祖先の宝物が隠されているかも知れない、という期待がなきにしもあらずだ。
深呼吸をし、さあいくぞとつぶやく。
からだの高さほどの、瓦礫の斜面を這うように登った。
目の前に半円形の入り口が迫った。
息を殺し、首をのばした。
直径一、五メートルほどの黒々とした闇である。
古文書に記された歴史的空間だ。
秦は、氷の中に浮かんで眠る一人の女性を想像した。