娘と蝶の都市伝説1
1ー1 謎の古文書
1
翻訳(ほんやく)された古文書(こもんじょ)は、いきなり本文から始まっていた。
『これは過去から続く伝聞をしたためたものである。
まだ全国統一もなされていない、王も出現していない時代のある日、村に一人の若い娘がやってきた。
娘は、人と仲良くなるために旅にでた、と妙な目的を村人に告げた。
毛皮の衣をまとい、背丈はすらりとし、頭はわれわれよりも小さめで、手足も長かった。
筋肉が引き締まったしっかりした体つきだった。
お前はそうやって出会った人と仲よくなるために旅をつづけているのかと聞くと、娘はそうだと答えた。
そしてここまできたとき、ふいに、新たな使命を思い出したので、今はこのまま歩いていくだけだと告げた。
この先は雪と氷の山だけだ、と忠告したが、もし自分が山で氷に埋もれてもそっとしておいて欲しい、そして氷が融(と)ける時がきたら迎えにきてください、待っています。
そう答え、ぴょう~と口笛を吹きながらいってしまった。
村の一人が跡をつけたが、娘は山の麓(ふもと)の洞窟の中に入っていき、氷に閉じ込められ、二度とでてこなかった。
すぐに寒波がやってきて、山は再び厚い氷におおわれた』
文章はそれで終わっていた。
「なんだよ、これは……」
秦周一(はたしゅういち)は、白髪(しらが)混じりの髭面で息を殺した。
翻訳された文章に目を走らせ、思わず声をもらした。
これが長い間、秦家が代々大切に保管してきた古文書の内容だったのだ。
肩の力が抜け、みるみる視界がぼやけた。
──その日、秦は仕事着の白衣のボタンも掛けず、西日の当たる漢方薬局『龍玉堂(りゅうぎょくどう)』の店舗(てんぽ)の中央に立っていた。
そして壁に掛かった、妻の明日子(あすこ)と四歳だった娘の雪子(ゆきこ)の写真を見上げていた。
この世から妻と娘が消えてしまってからというものの、どこか箍(たが)が外れてしまた。
『おれは、また中国の奥の雲南省(うんなんしょう)にでかけるよ。それに龍玉堂を受け継ぐ同じ血筋の親類がいるので、もうこの店を閉めようと思っている。もしかしたら今回は長い旅になるかもしれない。うまくいくように見守っていてくれ』
二人にそう告げ、でかけてきた旅だった。
そしてついに古文書を読み解く希代(きたい)な人物に出会ったのである。
だが──。
「しかし秦さん、ここにある山は、雲南の奥、チベット自治区との国境にある梅里雪山(メイリーシュエンシャン)と書かれています」
書道家の楊正寧(ようせいねい)が説明する。
描かれた地図に秦の焦点が合わなかった。
「地図はとても正確で、いまもこのとおりのはずです。この×印には『洞窟』があるそうです。この古文書は、古代人によって残されたものでしょう。実は偶然ですが私の親類は、この地図が描かれている雲南省の徳欽(ダーチン)という町に住んでいます。親類は梅里雪山の麓(ふもと)の小さな村、明永氷河(みんえいひょうが)のある明永村の出身です。
若いとき、私は何度も遊びにいきました。なにしろ私の遠い遠い祖先が、薬を作って暮らしていた土地ですからね。そんな人は、今はどこにも住んでいませんが、一族としてあなたの祖先も梅里雪山の麓で暮らしていたのでしょう。もし現地のこの洞窟にいきたいのなら、村の知人に案内するよう手紙を書いてあげますよ」
心熱に語りかける書道家の声が聞こえた。
秦と書道家は、どうやら遠い時代に、同族らしかったことも判明した。
書道家は、数千年ぶりかで出会った同族を前に思案気に顎をなでた。
「しかし、妙な内容ですな。見知らぬ娘が突然やってきて、人と仲良くなりにきたと言ったんですな。とにかく娘は×印のある氷の洞窟に閉じ込められたというんですな」
その古文書には、秦国(しんこく)の始皇帝(しこうてい)が求めた不老長寿の秘薬や、未知の薬草について書かれている訳でもなかったのだ。
「行ってみますか?」
老齢の書道家は、ようすを探るように訊ねた。
「もちろんです。でも、一度日本に帰ってからにしたいです」
とりあえずは日本に戻らなければならなかった。
梅里雪山(ばいりせつざん)という山は、登山に興味のある者ならば、1991年1月3日に起きた京都大学を中心にした日本登山隊11人と、中国登山隊6人の遭難事故を知らぬ者はいない。
それが、古文書の地図に記されていた山だったのだ。
書道家の楊(よう)によれば、山の麓にある村が、秦たちの歴史的な故郷でもあるという。
村の近くに明永という氷河があり、洞窟はその氷河の流れに沿った裏路にあった。
時間を見つけ、また行かなければと気にかけながら、日本に帰って一年近くがたった。
南極の氷や世界各地の氷河が融けだすニュースが、しきりにながれた。
『氷が融けたら迎えにきてください。待っています』と告げた古文書の中の娘の言葉が、秦の頭の中で、梅里雪山の山路を点々とした黒い文字の列になって登っていった。
2
徳川時代、龍玉堂(りゅうぎょくどう)は京都から新しい日本の都、江戸に移った。
秦周一の祖先は、中国の古代国家、秦国(しんこく)から来ていた。
何よりの証拠が、『秦国雲南薬草書簡』という秘伝書である。
書簡は秦家の貴重な宝物になった。
書簡は四十ページほどで、その時代時代の新たな薬草の情報が何度も書き直され、最後は漢文で編纂(へんさん)されていた。
表紙の裏には、初めの口伝(くでん)情報が竹符に記され、殷(いん)の時代に甲骨(こうこつ)に刻まれた象形文字の情報が一まとめにされ、漢字が使われだした周、秦、漢、魏(ぎ)と代々受け継がれ、新しい情報を加えながら大幅に書き直された、と記されていた。
記録が事実ならば、三国時代(さんごくじだい)以前の口伝の時代を含めた約二千年間の薬草情報ということになった。
中国には、秦の時代にまとめられた『神農本草経(しんのうほんどうきょう)』という薬草の本があるが、これとはまったく異なる内容だった。
また中国最古の薬草書でもある『呂氏春秋(ろししゅんじゅう)』とも別の流れを組む薬草本であった。
この秦国雲南薬草書簡(しょかん)を携(たずさ)え、秦を名乗った人物が日本に渡ったのである。
その書簡の書体は象形文字の名残りをとどめた隷書(れいしょ)に近い漢字だった。
内容は、残念ながら何度も書き直されていたため、甲骨文字などの情報は跡形もなく、今の時代から見れば特異な例を除き、古代からの普遍的な薬草情報でしかなかった。
また書簡は、魏(ぎ)の時代の原本を紙の大きさや形、そして薬草の絵や文字にいたるまでそっくり模写され、現代に至ったものと推測された。
ところが書簡が収められた古い木箱の底板が二重になっており、そこに二つ折りの茶褐色の一枚の文書が納まっていた。
A4大のその紙には、漢字ではなく、見なれない記号のような文字で並んでいた。
山を表すような三角の絵と簡単な地図も描かれ、同じ文字の説明文が記されていた。なにを意味するのか、ある地点には×印も付いていた。
古びて、今にも崩れそうにぼろぼろになったその古文書も何度か写し直され、そこに仕舞われていたに違いなかった。