バカ殿お笑い禁止令
滑稽本(こっけいぼん)作者の種袋快怪(たねぶくろかいかい)は、たちまち生活に貧した。それでも、いつか明るい未来がくる、ご時世で原稿料は払えぬが、この機会に密かに笑いの傑作を書き溜めておくべきだ、と版元(はんもと)の番頭にそそのかされた。そう言われればそうだなあ、と納得して机に向かったのだが、食うや食わず、明日をも知れぬ運命なのに、思いついたネタにくくくっと自ら笑い、よしと気力をふりしぼってみても、今日いかに食っていくかという問題は解決していない。ようするに、笑っている場合ではなかったのだ。
4 お玉が池のお笑い道場
岡っ引の徳兵衛は、やれやれと上がり框(かまち)に腰をおろした。
「おまえさん、おかえり」
女房のお春が水桶と手拭いをもって土間におり、亭主の草履(ぞうり)を脱がしにかかる。
すると表戸の障子に、踊りあがる大の字の人影が映った。
がらっと障子戸が開き、跳びこんできたのは下っ引の松五郎だ。
「親分、お玉が池に『お笑い道場』ができたぜ」
徳兵衛は、わっと足をあげ、背中からひっくりかえった。草履を脱がそうとかがんでいた女房のお春もとばっちりをうけ、土間に尻餅(しりもち)をついた。
あげた足の反動で、徳兵衛がごろん上半身をおこす。
「このご時世に、お笑い道場とはなにごとだ」
首をのばし、目を見開く。
「ふてえやろうだ、えいくそ」
上がり框(かまち)から土間に跳びおりる。十手もふところにあったし、草履もまだはいたままだ。
「松五郎、いくぞう」
二人は、紺屋町の家をとびだした。
お玉が池にむかい、ひた走る。
お玉が池の町の一画に、古びた武家屋敷があった。ふつう武家屋敷には侍が住む。だが、食っていけない武家が、二つある屋敷のうちの一つを貸し出すようになった。
屋敷の白壁に沿って、人がならんでいる。
侍、商人、職人、ふうの町人、町娘までいる。
玄関先で、中年の男が入門希望者を受け付けていた。
「八丁堀の定廻(じょうまわ)り同心、望月の旦那からこれを預かっているもんで、徳兵衛と申しやす。こっちは下っ引の松五郎でございます」
徳兵衛は十手を見せる。むっつりした四角い顔には、長年お上の仕事をこなしてきた者の威厳(いげん)が染み込んでいる。松五郎がぎょろ目であいさつする。
「これはこれはさっそくのお越しで、お役目ごくろうさまでございます」
受付の浪人風の男は、顔色ひとつ変えない。落ち着きはらった態度だ。
どうぞ、とすぐに屋敷のなかに案内された。
道場の広間には、道場主の新井風雲斎(あらいふうんさい)と塾頭(じゅくとう)の雨雲三太夫(あまぐもさんだゆう)と名乗る二人、それに十名ほどの弟子たちが集まっていた。全員、いかにも怪し気な総髪(そうはつ)の浪人風情だ。
「親分さん、かんちがいしてもらっちゃあ困るんです。お笑い道場といっても、当方は笑わすのではなく、笑わない方法を伝授しているんです」
道場主の風雲斎が真面目顔で説明する。
「当方で教えるのは、なにがあっても笑わない方法なんです」
そう答え、自信あり気にへへと微笑みかけたとき、風雲斎は、えいっと小さく叫び、鉤型(かぎがた)に曲げた左右の人差し指を口の左右の端に入れ、ぐいっと横に引く。そして曲げた指の先端で、頬をぷくっとふくらませ、笑っているのかどうかの見分けがつかないようにした。笑い声がでたとしても、喉の奥で、んごんごんごとしか響かない。
口から抜いた指を手拭いで拭きながら風雲斎がつづける。
「とにかく、ほんの小手調べで、ちょっとだけお見せしいたしやした」
いつの間にか徳兵衛が座った床に、紙に包まれたオヒネリが置かれている。それをすっと徳兵衛のほうに押してくる。
繁盛していたのは、笑わない術を学ぶための道場だったからだ。
「他の術はどうだい? 道場の自慢の技を見せてくれ」
徳兵衛は腕をのばし、おひねりを膝もとに引きよせ、馴れた手つきで懐(ふところ)に入れる。重さと感触から、小粒銀と判断する。
「親分さん、ご勘弁を。風雲非笑(ふううんひしょう)の術は、信州信濃の山奥で、臥竦心胆(がしんしょうたん)、艱難辛苦(かんなんしんく)、十余年の歳月を経、ようやく会得した荒技でございます」
風雲斎は眼を見開き、徳兵衛と松五郎の二人を見つめる。
その目が再びにいっと笑いかけるや、えいと両手の平をこめかみに当て、ぐいっとこすりあげた。目が吊りあがり、笑っているかどうかの判断がつかない。
「親分さん、入門希望者が通りにあふれないうち、手続きを終えようと思いますので、今日のところは、これでご勘弁願えませんでしょうか」
風雲斎はそういってまた笑顔になりかけるや、再度こめかみに手を当て、今度はぐいっと下に引いた。そして、目玉をぎょろっと上に向け、白目の顔になった。
小粒銀をふところに納めた徳兵衛は、ご要望どおり、とりあえず今日はこれでと、早々に道場をあとにした。
もちろん、納得したわけではない。
「くせえ。やつらから目をはなすんじゃねえぜ」
徳兵衛が、十手の先で鼻の頭をかく。
神田錦町河岸の飲み屋街に酔っぱらいがでて、よろけながら馬鹿をいってさんざ人を笑わせていると知らせがあった。
急ぎ、徳兵衛と松五郎が駆けつける。だが、酔っぱらいも通行人も失せたあとだ。しかし、酔っぱらいが現れた通りの塀に貼り紙があった。
『お笑い人参上』
「おわらいにんじんうえ、ってなんでえ」
松五郎が声にだして読む。食うと笑ってしまう人参が塀の上にでも乗っているのかと顔をあおぐ。
それは『おわらいにん、さんじょう』って読むんだと、ここにもいる野次馬が教えてくれる。
その男以外にも、笑った事実を隠すように何人かがぎゅっと口をすぼめ、うつむき加減である。
「だれかが笑うんじゃねえかって、松のやつがわざと声にだして間違えて読んだんだ。おめえら、絶対に笑ってるはずだ」
徳兵衛は松五郎に目配せをし、ぐいっと男たちの顏をねめる。
「とととと、とんでありません、親分」
「観念しな。笑っちゃいけねえって御告(おふれ)が出てんだ」
罪人がどんどん増え、小伝馬町の牢はすぐ満杯になった。
そこで新たに専用の収容所が中野に設けられた。
はじめは余裕があったが、あいつがいると笑ってしまう、と訴えられた連中、自分は笑い上戸(じょうご)で何かがあるとついで笑ってしまう、と自首する者、または外出禁止とされたおかしな顔の者なども収容され、施設はたちまち満杯になった。
結局、今にも笑いだしそうな連中とおかしな顔の罪人が加わり、中野の収容所は一触即発状態におちいった。
そしてついになにかのきっかけで、一人が、くくくっと笑ったため、それが導火線となって爆発がおこった。
どわわわわあっと中野の空にこだます大爆笑。
笑いの爆弾にさらされた中野の住民はつられて笑いころげ、必死に中野から逃げた。
5 笑いをふりまく豊臣方
「敵は徒党を組み、組織的である」
八丁堀同心、望月(もちづき)の旦那(だんな)は宣告する。
「と、もうしますと?」
「豊臣方の残党だ」
「豊臣? もう、百五十年も昔のことでございますが」