バカ殿お笑い禁止令
「親分、トンカチなんか、ふところから出して、どうしたんです?」
「トンカチだと? あれ、なんでこんなものがありやがんでえ。じゃあこれでどうだ、ご用だ」
「それは、草履ですけど?」
「うるせい、いちいちびっくりしたような顔すんな」
徳兵衛は足もとに投げだした草履をはき、やっとふところから十手をとりだした。
「それで曲者(くせもの)は、どうしたい?」
腕をまくり、ぐるっと首をひねる。
なにか言いたそうな面持ちの五、六人の野次馬(やじうま)が、寄ってきた。
「おまえたち、見てたのか?」
野次馬が、まってましたとばかりに語りだす。
「三人組です。べらべらしゃべくりまして、いったりきたり、すべったりころんだり、腹をだしてぺたぺた叩いたり、頭をど突きあったり。もう、おおわら……いいえ大変でした」
「最後には自分の尻をだし、ペンペンまでしやした」
「笑いのためなら、屁でもこきかねない勢いでした」
「すごいコテコテで、かなりえげつなかったです」
「で、見てて笑ったのかい?」
「ま、ま、まさかあ」
男たちは声をそろえ、真剣な目つきで首をふった。
「そのときに笑った奴らは、徳兵衛親分の姿を見て、さっさと逃げましたけど」
肝心の三人組の辻笑いも、あっというま、どこかに消えたという。
「親分、町のもんに混じっておれも見てたけど、やつらは大阪方面からきた連中ですぜ。『むちゃくちゃでござりまんねん』なんて喋ってるの、耳にしやした」
目玉の松五郎があらためて告げる。
松五郎のいうとおりなら、なぜ大阪方面からなのか。
このときの徳兵衛にはまだわからなかった。
3 おかげで岡(おか)っ引(ぴき)は大忙し
「あちこちにお笑い犬が出没し、人心を惑わせておる。見つけしだい、ひっとらえよ」
眉毛にいたずら書きをされ、笑ったような顔の犬が、お江戸の町を徘徊しているという。
八丁堀同心(どうしん)、望月の旦那の家敷をあとにした徳兵衛は、それとなく通りの犬たちを観察した。なんだかみんな笑っているようにも、そうでもないようにもおもえた。
目玉の松五郎をしたがえ、徳兵衛が小伝馬町の八角地蔵通りにさしかかると、広場に人があつまっていた。磔(はりつけ)だという。
「罪人(つみびと)はどこのだれだい?」
野次馬らしき男に訊ねた。
「この辺を、笑いながら歩きまわっていた不届き者ということで」
すこし前にとおったときは、馬子(まご)や人足がたむろす、いつもの集荷場の広場だった。
いきなり見せしめの磔とは、ただごとではない。
「ごめんなすって、ごめんなすって」
徳兵衛は、かがみこんだ姿勢で人をかき分ける。
磔(はりつけ)になっていたのは、犬だった。
『この犬、人を恐れず、界隈に笑顔をふりまきたるは甚(はなは)だ不届きにつき、磔のうえ、獄門に処する』
べろんと舌を横にだしている。
にたあ、と笑ったように歯を剥きだし、あーあと両手足をひろげている。
「お上の馬鹿め、犬ってのは笑ったような、こんな顔すんだ」
一人がつぶやいていると、見物人の足もとから、ひょいと一匹の茶犬が顔をのぞかせた。
なんとその茶犬は墨で描いたように八の字の眉をしている。そしてその目が、細く垂れ下がっていた。生まれながらの笑い目の犬のようだった。
つい野次馬たちは、あららら……と声をあげ、笑いかけてしまった。
「仲間の犬だな? 御用だ」
徳兵衛が、とっさに十手の先を犬にむける。
「いまお前ら笑ったよな。みんな現行犯だ、御用だ」
下っ引きの松五郎も野次馬たちに叫んだ。
たれ目の茶犬も野次馬も、蜘蛛(くも)の子を散らすように逃げだした.
地蔵堂の広場の向こうは町屋(まちや)である。何人かがそっちに逃げていった。
下っ引きの松五郎は、町屋とは反対の方向に逃げた者を追っていく。
徳兵衛は辻をよこぎり、町屋のほうにむかった。
町屋の路地に木戸(きど)があり、木戸番がいた。木戸番は、路地で暮らす住民の治安を担っている。
「さっき、笑いながらここを通ったもんがいただろ」
徳兵衛は十手を見せ、年寄りの木戸番に問いかけた。
「まさか親分さん。笑っているもんは、弁天様だろうと菩薩(ぼさつ)様だろうと、とおしゃしません。どうぞ、ご自由になかをお調べください」
年寄りの木戸番は、門の扉をあけ、鼻水をすすった。
華やかな表の商店街の裏側には、路地に沿って長屋がならんでいる。
「笑ってる者とかお笑い犬とかは、見なかったか?」
路地を歩きながら、開けられた障子(しょうじ)をのぞき、徳兵衛が声をかける。だが、長屋の住民は首をふる。
路地はすぐに行き止まった。長屋の奥の突き当りには、どこにも井戸と厠(かわや)がある。
そこにもそれらしき人影はなかった。
だがよく見ると、腰の高さの厠の扉の上から、男が首をのぞかせていた。
その男がなんと歯を食いしばり、声を殺して笑っていたのだ。
「こら、そこのおまえ。厠なら見つからないとおもって、そんなところにしゃがんで、密かに笑うな」
徳兵衛は厠にちかづき、戸を開けた。共同便所だから、入っている者がいるかどうかがわかるように、戸が低くなっているのだ。
男がしゃがんでいた。
「親分さん、笑ってんじゃねえんです。出るもんが出ないんで、歯を食いしばっている最中なんです。それで一時間もねばっていて、ついに今しがた、むずむずっと気配があって、しめたとおもったとき、うれしくて反応が顔にでたんです。あ、あ、あ、親分さん、きました、出ます。とうとう出ます……あ、あ、あ……」
さすがに逮捕する気にはなれなかった。
徳兵衛は木戸をぬけ、また表通りにひきかえした。
通りにでたとき、こんどは、武家屋敷の塀にひっつくように歩く男を見つけた。頭巾(づきん)をかぶって、いかにも怪しげだ。
「ちょっと、そこの旦那(だんな)」
徳兵衛が声をかけると、頭巾の男は両手をひろげ、ぴたっと塀に背をつけた。
「ごご、ご勘弁(かんべん)を、どうか顔を見ないでください。外出禁止の身ですが、母親が危篤(きとく)なもので、どうしてもいかなければならないんです」
さっきの犬と同じように、生まれながら、たまげたような笑った顔の持ち主だったのだ。
噺家(はなしか)や漫才師たちは、人が笑わない噺をするなら高座にあがってもよい、滑稽本(こっけいぼん)の作者たちも、人が笑わない本なら書いてもよい、とお達しを受けた。
「えーまいどばかばかしいお噺ですが、ちかごろは、笑っちゃいけねえなんて面白い世の中になりまして……そのお、なんという理不尽な馬鹿馬鹿しいお決まりでございましょうか……こやって、もう二十五秒も息を殺し、歯あ食いしばって笑いをこらえて話をしているんですが……」
いち早く獄門となった橘屋鈴太郎(たちばなやりんたろう)とならぶ江戸落語界の大御所の一人、月亭流腸(つきていりゅうちょう)は、高座でここまで語りながら白目を剝き、うーんと前のめりにうずくまり、そのまま抗議の憤死(ふんし)をとげた。