邪悪の正体
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年4月時点のものです。いつものことですが、似たような事件があっても、それはあくまでも、フィクションでしかありません、ただ、フィクションに対しての意見は、国民の総意に近いと思っています。このお話は、真実っぽい過去の話はあっても、あくまでも、登場する国家、政府、関係者、組織は架空のお話になります。国家や省庁で、どこかで聞いたようなところも出てきますが、あくまでもフィクションです。
二重人格?
精神疾患という言葉、いろいろなところで聞くことが多い。特に今のような多様化した世界であれば、
「どこで誰が病んでいる」
といっても不思議はないかも知れない。
病んでいるというのは、すべてが、
「精神疾患」
につながるものではないだろう。
病むということへの状況が、最終的には、精神疾患につながるのであって、そうならない人であっても、
「病んでいる」
というのはありえることで、それが、結果として、
「予備軍」
という言葉で表現されることになるのだろう。
つまり、病んでいる状況というと、一番大きなものは、
「外的要因」
ということになる。
中には、
「外的要因ではない」
という人もいるかも知れないが、それだけではないはずだ。
「すべての要因は外的要因にある」
といってもいいのではないかと思うのだが、自分で解決できないことが、自分を病む状況に陥らせることもあるだろう。
それを考えると、すべてがが外的要因だとは言えないのかも知れないが、人と関わることが必然である、今の世の中では、外的なものを含まないということはありえないといえるだろう。
そんなことを考えていると、自分の小学生時代のことを思い出していた。
あの頃は、友達がたくさんいるわけではなかったが、それでも、3人くらいは、
「お友達」
と言える人がいた。
それを人にいうと、
「その3人というのは、親友と言えるような人たちなんでしょうね?」
と言われたものだが、かすみとしては、
「そんなことはないわ。親友と呼べる人は一人もいない」
と答えたことだろう。
「親友だ」
と言った人からすれば、
「本当ならもっとたくさん友達がいるはずなのに、その人数ということは、断捨離のようなことをしたのではないか?」
と思ったのではないだろうか?
もちろん、
「断捨離」
などという言葉を子供は知らないだろうと思うし、基本的には必要のない言葉なので、あくまでも、
「文章の中のあやである」
と言えるだろう。
しかし、確かに友達を作るという意思を持っていれば、3人くらいというのは、中途半端な気がするのだ。
つまりは、
「友達がいない」
ということを公表しているようなものだがあ、かすみとしては、それでもいいと思うのだった。
小学生くらいの頃というと、背伸びしたい年ごろなので、もう少し友達がたくさんほしいと思い、ウソでも、
「友達は、十数人いるよ」
という、大きな大風呂敷を広げるくらいあってもいいだろう、
それなのに、実際には、そんなこともない。
「友達というのは、多いからといって、言い訳ではない」
という、子供のわりに、
「悟った大人のような考えを持っている」
といってもいい。
友達に言わせると、
「面相臭いやつ」
ということなのだろうが、だから、実際に三人だけだったのだ。
しかしながら、その三人が皆、
「分かり合える仲間」
というわけでもない。
どちらかというと、
「腹に一物ある」
といってもいいのだろうが、小学生並みの発想で、そういうものがあるのであった。
かすみの場合は、
「友達をたくさん作らない」
あるいは、
「友達が欲しくない」
と思う理由は、
「友達を理由にして、自由を失いたくない」
ということがあるからだった。
確かに友達がたくさんいると、いろいろな相談をするのに、ちょうどいいだろう。聞きたいことがあれば、いくらでも相談できるというのがあるのだが、実際には、そうもいかないのが実情だった。
というのも、
「皆、相談して、内容が違うから、どう整理していいのか分からない」
ということであった。
しかし、まわりから言わせると、
「一人一人意見が違うから、たくさんの相談相手を必要とするのであって、友達を相談相手だということで考えるのであれば、話の内容が皆違うということを言い出すのは、本末転倒である」
といってもいいだろう。
要するに、
「一人だけのいうことを聴いていればいいだけで、それだと意見が偏ってしまうから、他の人の意見も聞きたいということなので、そうでなければ、完全に本末転倒だといってもいいのではないだろうか?」
意見内容に関していえば、確かに同じではない方が、判断基準が増えていいのだろうが、自分でまとめることができないのであれば、結局どうしようもなくなるということになりかねないのであった。
そんな中において、自由というものがどういうことなのかということを考えてみた。
「自由という言葉をはき違える」
ということをよく言われるが、自由ということばの何たるかということである。
世の中には、
「広義の意味と、狭義の意味」
ということで二通りの言葉があるが、
「この自由という言葉に関していえば、広義な意味と狭義の意味ということでいえば、正反対に取られがちな言葉の代表例ではないだろうか?」
基本的に、一般的に言われている、
「自由」
というのは、
「広義の意味」
という方が強いだろう、
自由というのは、その字の示すように、
「縛りがない」
ということになるだろう。
しかし、そうなってしまうと、縛りがないのをいいことに、
「何をやっても構わない」
と考える輩も増えてくるのではないか?
ということになるのだ。
しかし、実際には、
「自由というのは、基本的な自由として、人に迷惑の掛からないという前提の元において」
ということになるだろう。
特に集団社会においては、誰か一人の自由を優先させようとすると、それ以外の人間で、少しでも関わっている人は、必ず、
「自由ではなくなる」
ということであり、そうなると、自由は、たった一人のための、独裁ということになるのだ。
たった一人のための独裁というのは、全体的に見ても、
「独裁でしかない」
ということになる。
つまりは、一人でも自由でない人間がいれば、
「そこは、自由ではない」
二重人格?
精神疾患という言葉、いろいろなところで聞くことが多い。特に今のような多様化した世界であれば、
「どこで誰が病んでいる」
といっても不思議はないかも知れない。
病んでいるというのは、すべてが、
「精神疾患」
につながるものではないだろう。
病むということへの状況が、最終的には、精神疾患につながるのであって、そうならない人であっても、
「病んでいる」
というのはありえることで、それが、結果として、
「予備軍」
という言葉で表現されることになるのだろう。
つまり、病んでいる状況というと、一番大きなものは、
「外的要因」
ということになる。
中には、
「外的要因ではない」
という人もいるかも知れないが、それだけではないはずだ。
「すべての要因は外的要因にある」
といってもいいのではないかと思うのだが、自分で解決できないことが、自分を病む状況に陥らせることもあるだろう。
それを考えると、すべてがが外的要因だとは言えないのかも知れないが、人と関わることが必然である、今の世の中では、外的なものを含まないということはありえないといえるだろう。
そんなことを考えていると、自分の小学生時代のことを思い出していた。
あの頃は、友達がたくさんいるわけではなかったが、それでも、3人くらいは、
「お友達」
と言える人がいた。
それを人にいうと、
「その3人というのは、親友と言えるような人たちなんでしょうね?」
と言われたものだが、かすみとしては、
「そんなことはないわ。親友と呼べる人は一人もいない」
と答えたことだろう。
「親友だ」
と言った人からすれば、
「本当ならもっとたくさん友達がいるはずなのに、その人数ということは、断捨離のようなことをしたのではないか?」
と思ったのではないだろうか?
もちろん、
「断捨離」
などという言葉を子供は知らないだろうと思うし、基本的には必要のない言葉なので、あくまでも、
「文章の中のあやである」
と言えるだろう。
しかし、確かに友達を作るという意思を持っていれば、3人くらいというのは、中途半端な気がするのだ。
つまりは、
「友達がいない」
ということを公表しているようなものだがあ、かすみとしては、それでもいいと思うのだった。
小学生くらいの頃というと、背伸びしたい年ごろなので、もう少し友達がたくさんほしいと思い、ウソでも、
「友達は、十数人いるよ」
という、大きな大風呂敷を広げるくらいあってもいいだろう、
それなのに、実際には、そんなこともない。
「友達というのは、多いからといって、言い訳ではない」
という、子供のわりに、
「悟った大人のような考えを持っている」
といってもいい。
友達に言わせると、
「面相臭いやつ」
ということなのだろうが、だから、実際に三人だけだったのだ。
しかしながら、その三人が皆、
「分かり合える仲間」
というわけでもない。
どちらかというと、
「腹に一物ある」
といってもいいのだろうが、小学生並みの発想で、そういうものがあるのであった。
かすみの場合は、
「友達をたくさん作らない」
あるいは、
「友達が欲しくない」
と思う理由は、
「友達を理由にして、自由を失いたくない」
ということがあるからだった。
確かに友達がたくさんいると、いろいろな相談をするのに、ちょうどいいだろう。聞きたいことがあれば、いくらでも相談できるというのがあるのだが、実際には、そうもいかないのが実情だった。
というのも、
「皆、相談して、内容が違うから、どう整理していいのか分からない」
ということであった。
しかし、まわりから言わせると、
「一人一人意見が違うから、たくさんの相談相手を必要とするのであって、友達を相談相手だということで考えるのであれば、話の内容が皆違うということを言い出すのは、本末転倒である」
といってもいいだろう。
要するに、
「一人だけのいうことを聴いていればいいだけで、それだと意見が偏ってしまうから、他の人の意見も聞きたいということなので、そうでなければ、完全に本末転倒だといってもいいのではないだろうか?」
意見内容に関していえば、確かに同じではない方が、判断基準が増えていいのだろうが、自分でまとめることができないのであれば、結局どうしようもなくなるということになりかねないのであった。
そんな中において、自由というものがどういうことなのかということを考えてみた。
「自由という言葉をはき違える」
ということをよく言われるが、自由ということばの何たるかということである。
世の中には、
「広義の意味と、狭義の意味」
ということで二通りの言葉があるが、
「この自由という言葉に関していえば、広義な意味と狭義の意味ということでいえば、正反対に取られがちな言葉の代表例ではないだろうか?」
基本的に、一般的に言われている、
「自由」
というのは、
「広義の意味」
という方が強いだろう、
自由というのは、その字の示すように、
「縛りがない」
ということになるだろう。
しかし、そうなってしまうと、縛りがないのをいいことに、
「何をやっても構わない」
と考える輩も増えてくるのではないか?
ということになるのだ。
しかし、実際には、
「自由というのは、基本的な自由として、人に迷惑の掛からないという前提の元において」
ということになるだろう。
特に集団社会においては、誰か一人の自由を優先させようとすると、それ以外の人間で、少しでも関わっている人は、必ず、
「自由ではなくなる」
ということであり、そうなると、自由は、たった一人のための、独裁ということになるのだ。
たった一人のための独裁というのは、全体的に見ても、
「独裁でしかない」
ということになる。
つまりは、一人でも自由でない人間がいれば、
「そこは、自由ではない」