未来への警鐘
ただ、本当に好きになった相手であれば、それが男であれ、女であれ、
「自分と一緒に前を向いていく」
ということの覚悟ができると思っていたのだ。
だから、結果を求めているわけではない。
「自分の気持ちに正直に生きる」
ということだけを求めていくというのが、治子の考え方だった。
ただ、そのためには、
「自分の気持ちに対しての正当性が見つからなければ、前に進むことができない」
ということなのだ。
前を向いていくということは、
「覚悟」
というものがある。
これは、吊り橋の上にいる時に感じることで、
「後ろを向くのが怖い時でも、前を向くのに、覚悟がいる」
ということになるのだ。
逆にいえば、
「後ろに下がるにも、その場所に留まるにも、前に進むにも、覚悟は必要なのだ」
という。
「しかし、前を向いて歩く方が、一番簡単であり、後悔が少ないかも知れない。だから、余計に覚悟がいる」
という考え方であった。
つまり、自由であり、何でもできるという発想であっても、結局は、つぶしが利かないともいえるだろう。
遊びの部分がないと言えばいいのか、
「自由というのが、実は一番難しい」
と言えるのではないだろうか。
自由というと、言い訳が利かない。何を言っても、失敗すれば、それは言い訳でしかない。
そのことを考えるのが、
「覚悟だ」
ということになるのだといえば、誰もが、
「覚悟というものを持って、生きているのだろうか?」
と考えてしまうのだ。
「覚悟は自分だけでするものだ」
ということであり、一緒に歩んでいく相手とするものではない。
そんなことは、親友が、まだ親友だった頃には分からなかった。
「彼女は親友だ」
と思っていたが、それだけではなかった。
その思いは、何か不可思議な印象を持っていて、
「親友という言葉に、違和感を感じていた」
のだった。
「治子ちゃんは、親友よ」
と、今から思えば、やたらと、親友という言葉を口にしていた。
他の人の話を聴いた時、治子の話題が出た時の、親友が治子のことをいうのに、
「親友」
という言葉を使っていたのだという。
まわりの皆は、いちかが、
「親友」
という言葉を口にした時というのは、
「治子のことだ」
ということは分かっているはずなので、皆分かっているのだろうが、やはり、治子のことだけ名前で呼ばず、
「親友」
という言葉を使うというのは、違和感しかないような気がする。
二人のことをあまり知らない人が聴いたのであれば、
「本当に親友なんだろうな」
と感じるのだろうが、知っている人はそうは思わない。
いちかの中に、
「治子に対しての見方が、他の人とは違う」
ということが分かるはずだからである。
いちかにとって、治子という存在は、きっと、ライバルのようなものだったのだろう。
最初から、
「彼氏の恋敵」
という印象がこびりついていたので、
「親友」
という言葉でごまかしてきたが、
実際には、
「どこまでが親友で、どこからが、恋敵なのか?」
ということである。
普通であれば、
「親友」
などという言葉は成立しないのだろうが、実際には、
「恋敵というものを、反対から見た時、親友になってしまうのではないか?」
と感じるのだった。
ただ、肝心の相手である、治子に、
「恋敵」
としての意識がないことで、親友と言われると、本当の意味で、素直に見てしまうのだった。
「親友という言葉と、恋敵という言葉は、紙一重だったんだ」
ということに気付くと、
「長所と短所は、紙一重」
という言葉を思い出した。
「途中、どこかに結界のようなものがあり、そのどちらを向くかということで、まったく違う。正反対のものが見えてくる」
ということになるのだろう。
そんなことを考えていると、まるで、断崖絶壁と言えるような、谷に掛かった吊り橋の上を歩いているかのように思えた。
断崖絶壁というものを意識していると、まるで、自分が吊り橋の真ん中にいて、
「前に進めばいいのか、後ろに下がればいいのか?」
ということを考えさせられる。
他人事であれば、
「前に進めばいいんだよ」
というだろうが、実際はそんなことはない。
なぜかというと、前に進んでいたとしても、その先にあるものは、
「もう一度、同じ道を戻らなければいけない」
という発想である。
「人生などのように、前に進むだけでいいのだろうか?」
ということを考えさせられてしまう。
なるほど、確かに人生というのは、後戻りすることはない。
いや、できない。
と言った方がいいに違いない。
前に進んだとしても、その先にあるものとしては、
「先の短いもの」
ということで、
「それこそが人生だ」
ということで、先の短さを、
「儚さ」
というもので創造してしまい、
「寿命というものを、自分自身で決めてしまっているのではないか?」
ということだ。
人生の先に見えるもの。それが、一体何であるのかということを考えた時、
「寿命を決めてしまうということは、限界を決めてしまうということだ。逆にいえば、自分の限界さえ決めなければ、寿命などというものは、いくらでも、どうにでもなるのではないだろうか?」
ということを考えたりする。
それを人生だというのであれば、
「誰がそれを決めるのか?」
ということを考えてしまい、
「好きになった人が、自分の運命を決めるというのは、ある意味、おこがましいのではないだろうか?」
「好きになられたから、好きになる」
ということを、
「肯定しない」
という人もいるようだ。
確かに、自分が好きになった相手がタイプなので、
「好きになってくれた相手が本当にタイプなのか?」
というと難しい。
しかし、好きになってくれた人には、自分のことを分かってくれようとする気持ちがあるのだ。だから、
「相手に対して、素直になれる」
ということであろう。
今まで、好きになった相手に比べて、好きになってくれた人など、圧倒的に少ないだろう。
治子は、自分のことを、
「惚れっぽい」
と思っている。
好きになった相手に対して、一生懸命になるが、逆に、好きになってくれた相手に、どれだけ真剣になれるかということを考えたことがないだけに、考えさせられるというものだった。
「そういえば、高校時代に付き合っていた男の子がいたけど、彼には、サンドバッグになってもらったことがあったな」
ということを思い出した。
そもそも、高校時代というのは、精神的に不安定な時だった。
特に、思春期が、結構長く続いたようで、初潮を見てからというもの、毎回のように生理不順に陥っていて、体育の授業も、休みがちになっていた。
さらに、中学から続けてきたバスケットも、高校入学とともに、諦めて、部活をする気にはなれなかったのである。
精神疾患
そんな高校時代には、少し、精神疾患があった。
「躁鬱症の気がありますね」
と、健康診断で、医師から言われ、
「一度、専門医に見てもらえばいい」
ということで、紹介状を書いてもらって、診てもらったのだ。