Sandpit
礼美が言うと、優奈は健と京美に同じ笑顔で一礼し、我妻と梶木にやや真顔で頭を下げてから、礼美の向かいに腰を下ろした。礼美は深く息を吸い込んで、目を無理やり大きく開いた。中林家のアイデンティティと言ってもいい柔軟剤の匂いと、自分が薦めたシャンプーの香り。それが混ざり合って初めて、中林優奈だ。優奈が纏っている空気はいつも、窮屈なひとり分の居場所をぐいっと広げてくれる。礼美は、優奈がテーブルに置いた手に自分の手を重ねると、呟いた。
「寝そう」
「あかんよ。そんなん、問屋があれよ。ごめん、何をせんのやっけ?」
「問屋が卸さん?」
礼美が再び閉じかけた目を向けて正解を言うと、優奈は虫でも振り払うように周りを見回してから、小声で言った。
「そうそれ。てか、問屋何様?」
一見さんのテーブルにサンドイッチを置いた京美は、全員分の注文が行き届いたことを確認してから、礼美と優奈の前にコーヒーカップを置いた。優奈が飲むコーヒーの代金は、剛が一ヶ月分ずつ前払いしている。京美がポットからコーヒーを注いで角砂糖をひとつずつ置いたとき、千円札をひらひらと振りながら剛が言った。
「健、あいつ今日、なんも食うてへんねん。なんかキャーって食わしたってくれや」
全ての事情を大声で話す剛とは対照的に、俯き加減になった優奈の顔が少しだけ赤くなった。そのままコーヒーカップを持ち上げたことに気づいて、礼美は自分の角砂糖を掴み上げると、優奈のコーヒーに放り込んだ。
「忘れてる。食べてないの?」
「ありがと、せやねん」
健がフライパンの乗ったコンロに再び火をかけて、まだ二人の前に立つ京美が言った。
「優奈ちゃん、千円あったら最高級ハムエッグできるで」
京美が盾になっていることに安心したように、優奈は頬を緩めた。
「お願いしていいですか? 実は、お腹ぺこぺこなんです」
「オッケー。礼美、あんたもなんぼか食べ」
「はい。あっ、お母さん」
礼美が姿勢を正すと、京美は肩から落ちかけたエプロンの紐を食い止めて、笑った。
「ここにおるっちゅうに、何?」
「カスタード欲しい。例のやつ」
礼美が言い、優奈が目を輝かせたのを見て、京美は呆れた表情で目をぐるりと回した。
「朝からほんまにもー。カフェちゃうで」
「いや、カフェやん」
礼美が言うと、京美は半分呆れた笑顔のままカウンターの後ろに戻って、冷蔵庫から紙袋に包まれたロースハムを取り出した。優奈は礼美の顔を見ると、歯を見せて笑った。
「ヤバい、テンション上がる」
京美が作る『カスタード』は、ひと口サイズのタルトに手製のカスタードクリームとカラメルソースが乗ったシンプルなお菓子で、二人の好物だった。店の看板メニューだが、礼美が落ち込んでいるときにも夜食という形で登場する。だから、丸川家の中では『ご機嫌伺いのカスタード』と呼ばれている。
優奈は、目の前の何もない空間にお菓子が置かれているように、宙をじっと見つめながら言った。
「レミたんの場合な。夜にお母さんが、あれを持って来てくれるわけやん」
「たまにね」
礼美が言うと、優奈はうっとりとした表情でコーヒーの湯気を眺めた。
「ほんま、最高過ぎる。うちには、そんなお洒落な夜食ないし。前も、出てきたおやつ魚肉シートやったやろ?」
健がフライパンを返す大きな音が鳴り、礼美は笑いながら時計を見上げた。
「私、優奈の家の魚肉シート好きやけどな。てか、五分ぐらいで食べれる?」
「うん。競争しよ」
優奈は即答すると、礼美と同じタイミングでコーヒーをひと口飲んだ。角砂糖を入れてもまだ苦い。でも、これが大人の世界では共通の眠気覚ましで、いわゆる嗜みだということも理解している。喫茶シャレードの本格コーヒーは、大人になるための通過儀礼だ。そう意識しながら、優奈が苦みに耐え抜いてようやく飲み込んだとき、礼美は全く遠慮することなく顔をしかめた。
「濃すぎや。これ失敗やろ」
我妻が新聞を読み始め、梶木はクロスワードの本を開いた。健と京美はハムエッグを作っている。剛は凱旋して店を出す話を宙に続けていて、息が漏れただけのような相槌をマリが打つ。礼美は改めて店内を見回し、思った。これだけ常連が揃う日も、珍しい。一見の客は、ひとりだけだ。ふと目が合い、礼美は店の娘らしく愛想笑いを浮かべて頭を下げた。
ここまで流行っている店だとは思わなかった。端の席でコーヒーを飲む女子中学生に会釈を返してから、三国は自分のコーヒーを飲み干した。自分が来たとき、暗黙の駐車場となっているらしい店前の路肩には、すでに骨董品のような白いアコードセダンが停まっていた。そして、それぞれのグループは座席こそ離れていても、全員が親子か顔見知りだ。抑えたボリュームでスピーカーから流れているのは、ドアーズのクリスタルシップ。壁に貼られているポスターは、ドアーズが二枚、キンクスとピンクフロイドが一枚ずつ。間違いなく、店主は音楽好きだ。こんな状況でなければ、長居したくなるぐらいに。
セフィーロは橋の欄干の真下になるよう河川敷に停めてあるから、しばらく人目に触れる心配はない。柿虫と吹谷は、チェーンの食堂に朝飯を食べに行った。行程があちこち歪んではいるが、今日も一日、強盗トリオは元気に生きるらしい。
ただ、誰も家に帰れていないというのも、事実だ。あの大男を殺した現場の近くには会社の看板があったから、山の中とは言え人通りはあるだろうし、すぐに見つかる。セフィーロで隠れ家まで戻ることも考えたが、変に足跡を広げるのもリスクがあるから、車内に漂白剤を撒いて、あの車とはここでおさらばだ。とにかく、積荷が手元にない上に人すら殺しているという現状をトミキチに知られるわけにはいかないし、できるだけ時間は稼ぎたい。窓から差し込む陽光を避けて少しだけ体を引いたとき、妻の雪美からメッセージが届いた。
『また戻れるようになったら教えて。買い物合わせるから』
正直、今回はすぐに戻れるか分からない。同時に考える。こうやって喫茶店に集う陽気な人間になるための道は、自分が見てきた景色のどこにあったのだろうかと。目に入っていなかったことは、確かだ。そして、振り返って後悔することすら許されないぐらいに、犯罪は常に目の前にあった。
女子中学生コンビの前に料理が置かれ、二人が時計を気にしながら食べ始めたのを見て、三国は壁にかかった時計を見上げた、七時五十五分。夜の内に例の積荷を見つけておくべきだったが、条件が悪すぎた。まず、街灯が少なかったから懐中電灯頼みになった。そして、柿虫は正門近くの排水溝だと言っていたが、実際に覗き込んでも見当たらなかったらしい。最悪なのは、もう少し気合いを入れて覗き込ませようと思ったときに、バイクに乗った不良に見られたことだ。吹谷がダッシュボードからナイフを取り出して降りようとしたのを止めたのは、正解だった。もしそんな姿を見せたら、こうやって留まることすらできなかっただろう。柿虫を再チャレンジさせるのは、通学ラッシュが終わってから一時間後ぐらいを予定しているが、特に決めていない。とりあえず平日なら、人通りが静まる瞬間がどこかにあるはずだ。