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オオサカタロウ
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novelistID. 20912
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Sandpit

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「おはよう」
 その声のトーンで寝ていないことを察した健は、店のコーヒーを飲み干して言った。
「おはよう、寝てへんやろ」
「単に、早く目が覚めただけ」
 礼美はそう言うと、カウンターの後ろに滑り込んだ。健は隣に並んだ礼美の顔色をちらりと見た。どう見ても、徹夜明けの顔をしている。感心なのは、親の仕事場にはちゃんと『正装』で出てくるということ。礼美は、店内では必ず制服姿だ。よそ行きの私服すら着ない。物静かだが、人当たりはいいし良く笑う。インスタントコーヒーとはひと味もふた味も違う、自慢の娘だ。しかし京美からすれば、一歩歩くだけで粗が千個は見つかるから、まだまだレディにはほど遠いらしい。
「お父さん。おはよう」
 礼美が挨拶を繰り返し、健は笑った。
「さっき、言うたやろ」
「胃に優しいのに眠気がシャキっとする、そんな朝ごはんが欲しい。でも、ないものねだりってことを分かってるから、今日は食べへん」
「物分かりのええ、二日酔いのおっさんやな。ええんか? 食べんで。優奈ちゃんは八時に来るんか?」
 健が言うと、礼美は笑いながらうなずいた。
「もうちょっと早いかも。優奈も寝てへん」
「ほな、お前も寝てへんやんけ」
 健が言うと、礼美は肩をすくめながら端の席に移動し、壁に頭を預けて目を閉じた。軒先の掃除を終えた京美が戻ってきて、礼美に言った。
「一日の始まりやのに、もう終わっとるやん」
「お母さん、おはよう」
 礼美は薄目を開けて言い、糊の利いた制服に折り目がつかないように気をつけながら、再び目を閉じた。優奈とは、何時間話しても足りない。喋っている最中に次に言いたいことが浮かんでくるから、それを口から押し出していると無限に会話が続く。ふっと意識が飛び、再び目が開いたときには一見も含めた客が何組か入っていて、カウンター席でモーニングを食べる二人組と目が合った。常連だ。
 薄緑の作業服に黒いジーンズを履いているのは、梶木源五郎。四十代で背が高く、全体的に部品が大きい。上着の右ポケットからは皮手袋がはみ出していて、いつもクロスワードパズルの本を持ち歩いている。オールバックの髪と切れ長の目はよく合っていて、頬に残るクレーターのような傷跡さえなかったことにすれば、男前と言っても通用するだろう。ゆで卵派だが、殻を剥く腕前は下から数えて世界で五番目ぐらい。今まさに奮闘していて、ようやく頭が出た。
 その隣は、今年八十歳を迎えた我妻礼介。こちらは最小限の部品で無駄がない。足元はストレートチップの革靴、白いカッターシャツに黒の細いネクタイという喪服のような出で立ちで、年相応に皺は刻まれているものの、実年齢よりも遥かに若く見える。健曰く業界通らしいが、礼美は梶木との関係性をいつも不思議に思っていた。親子ではないし、かといって同じ仕事をしているようにも見えない。おまけに、猫背の梶木と比べると、背筋が伸びていて姿勢が良いのが余計に目立つ。優奈は『中に棒が入ってて、それが本体』と言っていた。そして、我妻はポーチドエッグ派だが、それには理由がある。自分の歯が一本も残っておらず、ゆで卵だと勢い余って喉へ直行するからだ。八十歳で歯がゼロ本だから、優奈との間では『T8000』と呼んでいる。
「京美ちゃあん、今日のポーチなんたらは、うまいことできとるのお」
 礼美は思わず、体を起こした。我妻がこんなに長く喋るのは、初めて見た気がする。京美が着崩したエプロンのポケットに触れながら、笑った。
「ありがとうございます。ポーチドエッグね」
 我妻は復唱しようとしたが舌が回らず、梶木が会話の温度を冷まさないように口を挟んだ。
「ポーチも、エッグも分かるんですけど。間のドって、なんなんすかね」
 京美が聞いていない振りをし、健が顔をしかめたとき、礼美は手を挙げながら言った。
「受動態です。ポーチされたエッグって意味」
 我妻と梶木が違う音程で唸り声を発し、梶木はゆで卵の残り三分の二を剥く作業に戻ったが、我妻が感心したようにゆっくりとうなずいた。
「ドは、されたって意味か。なんでも勉強やのお」
 そのやり取りを聞いて、健はフライパンを振りながら口角を上げた。英語が好きな礼美は、すでに高校の参考書を読み始めている。我妻と梶木が食後のコーヒーに切り替えて七時半になったとき、表からも聞こえる音量の話し声が近づいてきて、ドアが開いた。鈴が鳴るのと同時に、頭を突っ込むように入ってきた中林剛が言った。
「コーヒーツー」
 コーヒーを二杯くれという意味で、剛は猫舌だから季節問わずアイスコーヒーを飲む。礼美は姿勢を正すと、剛と後ろから入ってきたマリに頭を下げた。
「おはようございます」
「おー、礼美ちゃん。えらい早起きしよんな。え?」
 剛が破裂寸前のような腹を揺すって笑い、マリがミスコン立ちの姿勢になると、威嚇するような外向きの巻き髪を振りながら、意地悪すれすれの美しい笑顔を作った。
「女子に詮索するもんやないで。はよ座り」
「はいはい。よっ、テーブル席」
 剛は自分の行動を予告しながらテーブル席に腰かけ、雑誌を棚から引き抜いた。マリは優雅な仕草で向かい合わせに座ると、メニューに目を通した。礼美はその様子を眺めながら、思った。優奈は、両親からどの部分を取ったのだろう。剛のハイテンションな要素は少し感じられるが、マリの見栄っ張りな感じは全くない。
 七時四十五分。優奈がやってくるのはここから八時までの十五分間で、寝ていなくても時間は正確だ。礼美が夜中に話したことを思い出していると、鼓膜をこじ開けるように剛の大声が割り込んできた。
「ほんでな、言うたったんや。んな、小銭の話をしてんちゃうねん。億やて」
 剛は上機嫌でマリに話しているが、嘴のような長い爪でスマートフォンを操作するマリは、全く聞いていない。剛が五十歳で、マリは三十五歳。十五歳差の夫婦。話なんて合うはずがない。礼美はチームワークで注文を捌く父母に視線を移して、小さく息をついた。優奈には悪いけれど、普通の親でよかったと思う。ドアがカランと音を立てたとき、剛は短い腕を大きく広げた。
「裸一貫、外国で財を成して、凱旋して帰ってきよんねん。ごっつい店を角地にバーンって出してや。そんなん、なんぼ祝っても足りんやろが。何が、祝い金三万じゃ。ほんまに、ケチくさいおっさんやで。もうあいつには、めでたい話は一切せんからな」
 もはや本人すら、自分が誰に何の話をしているのか、分かっていないのではないか。礼美は苦笑いを浮かべながら入口に顔を向けて、すぐに普段通りの笑顔に切り替えた。世界を救いに来たような堂々とした立ち姿で、優奈が立っている。制服は折り目正しいが、鞄はあちこちぶつけた跡があって、しわしわの古札のようだ。細身だから、太陽の光を後ろから浴びると余計に華奢に見える。
 優奈は歯が端から端まで覗く笑顔を礼美に向けて、言った。
「レミたん、おはよ」
「おはよう、笑顔が眩しい」
作品名:Sandpit 作家名:オオサカタロウ