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オオサカタロウ
オオサカタロウ
novelistID. 20912
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Sandpit

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 それ以来、何かがある度に、鏡を見るようになった。柿虫は、姿見に自分の全身を映しながら、子供時代からずっと続く自己評価を、改めて自分の頭に振り下ろした。自分は、普通の人生を歩めない。歩めなかったし、今もこうやってどうしようもない場所に、ひとり残されている。その中で、ひとつだけ自分をまっすぐ前に動かしている燃料があった。それは、ヤマタツの言葉だ。本当に自分が好きなことをする。
 今もその指示を聞いているだけだと考えれば、進歩はない。しかし体の奥には、ずっと巻いたままにしていたゼンマイが回り始めたような、微かな手ごたえがある。
 そもそも、あんな言葉が出る時点で、ヤマタツには殺す気などなかったのだと思う。そんな覚悟がない人間に殺されるのだと思うと、死ぬのが突然怖くなった。生存本能のメカニズムは分からないが、自分の運命を左右しそうなことは、今は何も受け入れるつもりはない。
 柿虫は冷蔵庫を開けると、タッパーに入った煮物を深皿に移して、レンジに入れた。上の段に並ぶ缶ビールを一本手に取り、プルトップを開けるのと同時に喉へ流し込むと、顔をしかめた。二十四時間前には、こんなことになっているなんて、予測もしていなかった。車両倉庫へホンダライフを走らせていて、ハンドルを持つ手はずっと緊張で震えていたのだから。
 レンジが音を鳴らし、柿虫は煮物をダイニングテーブルの上に置くと、箸がないことに気づいて、棚を開けていった。
    
   
 寧々が屋上から下りていった後も、礼美は空調の後ろでしばらく座っていた。体が本能的に安全な場所を求めていて、直感はどういうわけか、それが優奈のホームグラウンドである屋上だと判断していた。
 今は優奈と交代したように、町を見下ろしている。
 何度も来たことがある、大好きな場所。去年の夏、最初にここに呼んでくれたとき。優奈は『キャンプファイア以外やったら、何でもできるで』と言って、燃えるような夕焼けに沈んでいく町並みを見ながら笑っていた。真正面から真っ赤に照らされる横顔が眩しかったのを、よく覚えている。
 幼馴染だから、記憶にもそれなりの歴史があった。小学校のころは、子供には広すぎる部屋で『ホテルのスイートごっこ』をしていて、ビーチボーイズのポスターを貼ってからは、敢えて部屋の端同士に座り、遠くから声を掛け合って笑い合うのが流行った。でも、屋上キャンプは肌寒さが完全になくなる五月以降に呼ばれるのが常だったから、こうやって季節外れに来てみてまず驚いたのは、その寒さだった。
 どんな季節であっても、優奈は何回かに一回、必ず屋上キャンプから電話をかけてきていた。こんなに寒いところで、何をしていたのだろう。寧々の張りつめた表情や、我妻と梶木の素性。喫茶シャレードの成り立ちや、人の家庭を壊そうとした高遠。今まで知り得なかったことが、今はぽっかりと開いた裂け目から見えている。その中に、屋上キャンプから電話をかけてくる優奈もいるのだろうか。
 大好きな優奈の姿が裂け目を通してしか見えなくなるのは、絶対に嫌だ。礼美は唇を固く結んで、少しずつ眠りに落ちつつある町を見下ろした。
 今の救いは、ついさっき届いたメッセージ。
『報告すること、めっちゃありすぎて無理』
 いつもの優奈だ。代わりにここに立っているのが自分だというのは、立場が入れ替わっているようで不思議な感じがする。そして、その報告が何であっても今すぐに聞きたい。電話をかけるか迷いながら町の景色に目を凝らせたとき、礼美は川を越えて左折してくる車を見て、倒れ込むように身を低くした。シルバーのジムニーは車体を揺らせながら道路を走ってくると、敷地の前で停まった。運転席に座る梶木を見た礼美は、思わず口元を手で押さえた。ずっと卵の殻を剥くのが下手だと言って笑ってきたのに、今はその記憶全てが恐ろしく感じる。梶木と待ち合わせをしていたように車庫から出てきた後ろ姿を見て、礼美は息を呑んだ。寧々だ。
 梶木と寧々の様子を窺い始めたとき、遠くにライトが二つ見えて、礼美は目を細めた。二人とも時間が惜しいように、自転車を押しながら歩いている。目を凝らせたとき、それが優奈と修哉だと気づいた礼美はスマートフォンを取り出して、優奈のメッセージ画面から通話ボタンを押した。豆粒のように見える優奈がポケットから自分のスマートフォンを取り出して耳に当てたとき、礼美の耳元にすでに懐かしく感じる声が聞こえてきた。
「レーミた―ん!」
「優奈、ちょっと待って。今な、屋上キャンプにおるんやけど」
 礼美が言うと、優奈と目が合った気がした。両手を大きく振り始めたのを見て、礼美は首を横に振りながら小声で言った。
「後藤くんと、前の道に入ったとこやんな。そこで待ってて」
「どうしたん?」
 優奈の声のトーンが変わったとき、礼美は車庫の外を見下ろした。ジムニーが中に入っていき、寧々がその後を追うように戻っていった。梶木と寧々は、これからどこかへ行こうとしているのかもしれない。
「ちゃうねん」
 礼美は何が違うのかも分からないまま、とりあえず口に出した。ようやく優奈の注意を引いたことが沈黙から伝わり、礼美は続けた。
「クロスワードの梶木がヤバい奴って、知ってた? うちの店では有名なんよ」
「うん。昔、うちの従業員やったらしいよ。すぐ人とか殴るからクビになったって」
 優奈の言葉に、礼美はうなずきながら言った。
「あいつが、戻ってきてる。今、お母さんと喋ってるわ」
 そこで立ち止まって待つよりは、引き返してほしい。礼美は優奈の姿を見つめた。修哉が心配そうにその横顔を見ているが、固まったままぴくりとも動かない。何か、変なことを言っただろうか。礼美は自分の言葉を頭の中で繰り返したとき、スマートフォンを落としそうになって手に力を込めた。
「マリ、帰ってるん?」
 優奈の言葉に、礼美はからからに乾いた喉を鳴らした。
「え? いや……」
 私は、とんでもないことを言ってしまった。礼美はその場にしゃがみこんだ。優奈の声が追い打ちをかけるように届いた。
「レミたーん? さっきまで見えてたのに、どこ行った?」
 こんな状態で、放っておけない。自分の口が滑ったことが原因なのに、これではあまりにも無責任だ。礼美がうずくまったまま深呼吸をしたとき、優奈は続けた。
「ネオン姉さんって、まだそっちにおる?」
 優奈は、礼美の答えを待った。修哉がこっちを見ているのが分かる。その視線は痛いけれど、今は応じられない。廃墟に行く前、寧々は仕事の話があると言っていた。だとしたら、あの建物の中にいる女の人は、他にいない。
「うん」
 礼美の返事を聞いて、優奈は全身を地面に結ぶ重力が抜けたように、よろめいた。礼美との通話が始まってから初めて修哉と目を合わせると、呟いた。
「後藤くん。お母さんが変わった、今。わたしの」
「え?」
 修哉が目を丸くすると、優奈はスマートフォンの先で声を待ち構えている礼美に言った。
「レミたん……、マジ?」
「ごめん」
 礼美の涙声に、優奈は眉をハの字に曲げた。どうして、そんな悲しい声になるのだろう。
「なんで、謝るん。それ、すごいことやで」
「いや、私の口が滑ったから……」
作品名:Sandpit 作家名:オオサカタロウ