Sandpit
そう言うと、川端はクラッチを握り込んで、数回空ぶかしをした。後藤が黄色信号を守るのは、弟がいるからだ。仲が悪いと言っていたから言葉通りに受け取ってきたが、先月初めて学校以外の場所で兄弟と遭遇したときに、違うと分かった。隣に立つ縮小コピーのようにそっくりな弟が修哉と名乗ったとき、まず後藤兄弟がサイズと色が違うだけの同じ上着を着ていることに気づいた。弟が兄の真似を目の前で堂々とする兄弟だ。仲が悪いわけがない。おまけに、これから二人で食べると思しきハッピーターンの袋も持っていた。パウダーが二五〇パーセントの、味が濃いタイプ。どちらかというと、絵に描いたような仲良し兄弟だ。
「なー、タク。修哉くんは、バイク乗らんの」
水島が言い、後藤は苦笑いを浮かべた。
「中二やぞ」
後藤家は、家の壁まで規格に合わせたような量産型の家庭だ。サラリーマンの幸平、パートの真由美、子供が二人。車は黒いプリウスアルファで、七人乗りを選んだのは近所に住む祖父母を乗せるためだ。父が押し通せたこだわりは、ボディカラーぐらい。それすら、母から反対されて危うく赤になりかけたらしい。後藤は足並みを揃えてスピードを上げながら、ナトリウム灯が等間隔にオレンジ色の光を投げかける道路に集中した。川端と気が合ったのは、バイクの話がぽんぽんと進んだからだ。家には、そんな話ができる人間はひとりもいない。父母は、弟の修哉を失敗作にしないよう必死だ。全てを反面教師にして、学力テストで常に上位に入る秀才を育てている。何を反面教師にしているかというと、先に練習台として生まれた兄、つまり自分だ。
「あいつがバイク乗りたい言うても、絶対に乗せん」
後藤が言うと、川端が顔を向けた。
「なんで?」
「危ないし、うるさいから」
後藤はそう言うと、ギアを三速に上げた。甲高いエンジンがどこまで響いてどれぐらいうるさいか、そんなことはよく分かっているし、人の迷惑になることに修哉が興味を持つとは思えない。
「過保護やなあ。まあ修哉くん、可愛いもんな」
水島が言い、似たようなヘルメットを被る川端と後藤を交互に見た。沈黙が続き、水島は息を漏らすように笑った。
「どっちか同意してよ。なあ、兄? おい」
二台分のエンジン音で自分の声はかき消され、会話を諦めた水島は首を伸ばして眼前の景色を眺めた。中学校の前を通る、片側一車線の道。今垣第三中学校が見えて、要塞みたいな壁には大きな文字が躍る。
『授業中はしずかに』
外の世界へ向けたメッセージ。水島が大きく息を吸い込んだとき、川端がギアを落とした。後藤が合わせるように少し遅れてスピードを落とし、ほとんど止まるぐらいの速度になったときに言った。
「どうしたん?」
「いや、見たことない車がおる」
川端は、車から百メートルほど離れたバス停にバイクを停めた。水島は、正門の近くに斜めに路上駐車するシルバーのセフィーロを見て、顔をしかめた。
「ヤカラちゃう?」
後藤が隣まで来ると、川端と水島が眺めている方向に目を凝らせて、呟いた。
「古い車やな」
自分の言葉がきっかけになって余計に気にかかり、後藤拓斗は目を凝らせた。弟の修哉は、ここの二年生だ。三歳離れているから学校が被ることなかったが、自分がこの中学校にいたときのことは、今でも鮮明に記憶している。川端曰く『お上品公立』で、割れている窓が一枚もないと言って、感動していた。そんな学校の前に、不審な車がうろついている。水島が川端の頭を支えにして伸び上がり、長いまつげで強調された大きな目を細めた。
「排水溝のとこに人がおる」
川端はライトがちらつく様子を眺めた。小柄な男が工事業者のような姿勢で、排水溝の蓋を持ち上げている。助手席の窓が開いていて、中から誰かが仕事ぶりをチェックしているようだった。
「りのっぺ、川端の後ろに隠れた方がいいで」
後藤は小声で言った。その雑な停め方や、ライトを全て消してアイドリングしている様子は、どことなく危険だ。水島が素直に川端の背中より下へうずくまり、後藤は続けた。
「もーちょい。めり込むぐらい」
水島は体をくの字に折りながら、くすくすと笑った。
「無理。もう一個、関節要るわ」
後藤がつられて笑ったとき、川端がギアをニュートラルに入れて、スロットルを全開にした。VT250のマフラーから周囲百メートルの生き物を全て叩き起こすような爆音が鳴り響き、作業中の男が持つライトが揺れた。驚いて排水溝の蓋に頭をぶつけたらしく、立ち上がった男はよろめきながらセフィーロの方を向いた。後藤は、その背丈を見て子供かと思ったが、腰と頭をかばいながら後部座席に乗り込む姿を見て、自分たちよりはるかに年上だと思い直した。
後藤が川端の方をちらりと見たとき、セフィーロのヘッドライトが灯り、続けてブレーキランプが光った。タクシーのようにゆっくり発進すると、セフィーロは山道の方向へ消えていった。間の赤信号を全て無視していくのを見た水島は、川端の腕をつついた。
「信号、ガン無視やん」
「治安維持完了」
川端は誇らしげに言うと、後藤に拳を差し出した。二人がグータッチをする様子を眺めていた水島は、わざとらしくため息をついた。
「男子やわー。アホやわ。なー、どう思う?」
「誰と喋ってんねん」
川端が振り返ると、水島は舌を出した。
「頭の中の女友達。ひとりじゃ、君らには付き合い切れんって」
客が朝を過ごすためには、それより二時間ぐらい前に朝を迎える必要がある。丸川健はインスタントのコーヒーをひと口飲み、次に妻の京美が淹れたばかりの『店のコーヒー』を口に運んだ。雲泥の違い。舌に聞くまでもない。京美には、対戦相手のハードルを下げ過ぎだといつも笑われる。日が昇るのを眺めながら、二つのカップを前に難しい顔をしている様子は、もはやコントに見えるらしい。しかし、一日を始めるにあたって、儀式のようなものは必要だ。高校を出てから『脱サラ』するまでの間、体育会系の会社で営業をしていた健からすれば、朝礼のようなルーティンは絶対に外せないものだった。布団から出た瞬間に切り替えられる器用な人もいるが、自分は全てにおいて不器用だ。メニューを考えるのも、客に愛想を振りまくのも、基本的に京美の仕事。自分の役割は、こだわりを押し通すことだ。例えば、二ヶ月前にモーニングをゆで卵と落とし卵から選べるようにしようと提案したのは、京美だ。しかし、湯にホワイトビネガーを混ぜるのが正統派だと本で読んで、先月から客が口元をすぼめるのを構うことなく酢を入れ始めたのは自分だ。呼び方も、この店では『落とし卵』ではない。メニューには礼美の字で『ゆで卵 もしくは ポーチドエッグ』と書いてある。
朝の七時になり、京美がドアの札を『OPEN』にひっくり返した。
喫茶シャレードは今垣第三中学校と同じ道路に面しているから、あと一時間もすれば通学する中学生で溢れ返る。健全な通学路の中で怪しい雰囲気を醸し出さないよう、二階が雀荘だったことを示す看板は徹底的に消したつもりだが、鋲を打った跡はコンクリートに残っている。
健が手をかざしてフライパンの温度を確かめたとき、住居部分に続くドアががちゃりと開き、礼美が現れた。