Sandpit
修哉は、優奈が廃墟にいた男二人と対峙したときの口調を思い出した。その声は全く震えていなくて、対等どころか、立場を上回っているようにすら聞こえた。自分を守るように後ろへやったときも、前から車がやってきて友達を歩道へ寄せているような、なんの緊張もない手つきだった。
「不平等やな」
修哉は呟いた。どこで何をしていても『中林家』の影がつきまとうのだとしたら、それを負い目に感じている優奈にとっては、時間は平等じゃない。
「やっと意味が分かった気がする」
そう続けたとき、山道を全力でダッシュしてから初めて優奈と目が合った。修哉はようやく整ってきた呼吸を乱さないように気をつけながら、言った。
「いつも、それが気になる? ヤバい両親のことさ。忘れるときはない感じ?」
優奈は首を横に振ると、両頬から涙を払いのけた。
「忘れてるときもあるよ。夕方に、レミたんが後藤くんを喫茶店に誘ったやん。あのときは、テンション上がって完全に忘れてた」
修哉は優奈の背中をぽんと叩くと、言った。
「取り返せるで、時間。絶対いける。そういう時間を増やしていこや。じゃあ、おれは助けになってる?」
優奈はペダルにかけたままになっていた片足を地面につけると、ふと蘇った記憶に俯いて笑った。
「洗面器にちゃんとラップかかってたときも、忘れてた」
「めっちゃ忘れるやん」
修哉が言うと、優奈は俯いたまま笑った。確かに、忘れていた瞬間はあちこちにあった。昌平の上着を掴んでカゴに入れたときですら、頭の中に浮かんでいたのは図体のでかい従兄弟の背中ではなかった。自分が囚われてきたことと、それを解き放ってくれる存在。昌平の上着を羽織ってこちらを見ている修哉の姿がまさにそれで、それは上着を脱ぐだけで切り替わるぐらいに、あっけないことなのかもしれない。
「わたし、明日からどうやって喋ろうって、そんなことも考えてた」
優奈が言うと、修哉はペダルに足をかけた。再び自転車を進めて二人で橋を渡る途中、それまでずっと答えを考えていたように顔をしかめていた修哉が言った。
「まず、喋らんのが無理やろ。おれらが黙ってるの、想像できんのやけど」
優奈は、その横顔を見ながら思った。こんな人だったっけ。今までなら、進んでいく方向に呆れ顔でついてきてくれる、そういう存在だった気がする。その距離感が普通で、修哉は自分の立ち位置を常に保っていた。でも、何かが変わった気がする。優奈は言った。
「楽しいよね」
「楽しいよ」
修哉はそう言うと、橋を渡り切ったところで続けた。
「これから、色々忘れていこう。残りの一年半で、十年分ぐらい遊んだらいいねん。テスト勉強とか、全部おれが教えるから」
「あはは、めっちゃ心強い。ありがと。てか十年前って、わたし四歳やねんけど」
「取り返せ取り返せ。物心ついたとこから全部」
その言葉の勢いに優奈が笑ったとき、修哉は続けた。
「もう喋らんとか、心配のハードルが低すぎるわ。一回好きになったもんは、そう簡単に嫌いにならんやろ」
しばらく無言で自転車を漕いだ後、優奈は急ブレーキを踏んだ。修哉も自分の言葉が持つ意味に気づいて、斜めに車体を傾けながら自転車を停めた。
「えーっと。一回、好きになるとするやん」
「説明?」
優奈はそう言うと、数時間前にケロリンの洗面器を挟んで話したベンチに目を向けた。神様がめちゃくちゃな手順を踏みながらも、ここまで繋いでくれた。いつも通り、そう結論づけそうになって、優奈は考え直した。今、いいことが起きているのなら、それは自分たちが道を切り開いて、そこまで辿り着いたからだ。今なら、自分がずっと頭の中で温めてきたことを言葉にするのも、全く怖くない。
「わたしも好き」
修哉の方に向き直ると、優奈は言った。自分たちが発した言葉のインパクトによろめきながら自転車のスタンドをかけて、二人でベンチに座ったとき、修哉はスマートフォンを取り出して時計を見つめた。夜十時。いつもなら塾から帰っている途中だ。もう少し時間が押しても、怒られないだろう。
「中林さん、門限とかないの?」
「そんなんないよ。わたしは、二十四時間営業」
優奈が力こぶを作るのを見て、修哉は同じ仕草を真似ながら笑った。
「おれら、ここにずっとおったら、補導されるかな?」
「かもしれんけど、わたしはお兄ちゃんの方が心配」
優奈が言うと、修哉は口角を上げた。
「地獄のライダーやから、大丈夫。それに、ああ見えて無茶はせんタイプやから」
『この先、私有地』と赤い文字で書かれた看板。それをやり過ごすと、拓斗はギアを一段落としてエンジンブレーキをかけた。片側一車線の古い山道で、反射板以外に光源はない。ガードレールにも木の枝が巻き付いていて、あまり整備は行き届いていないようだった。拓斗はギアをさらに一段落とすと、砂利が敷かれた転回用の広場へ入り、自販機の手前にニンジャを停めた。
ヘルメットを脱いでハンドルの上に置くと、拓斗はスマートフォンをポケットから取り出した。町に流れ込んでいる川の上流側で、砂防ダムの近く。間違いなく、水島がチェックインした場所の近くだ。実際の点は林の真ん中で、そこに続いている道は地図に表示されていない。その入口がさっきの看板のところで、そこから先に行かなければならないのだろう。
「くそっ」
拓斗は呟いた。ひとりではどうしようもない。想像していたのは、もっと外から様子が窺えて、水島が分かりやすく建物の中で助けを求めているような状況だった。現実には、地図上で水島の位置を示す点を景色に当てはめても、それはただの真っ暗闇だった。同時に、そんな真っ暗な場所にいるということ自体が、自分の悪い予感を的中させているようで、背筋は芯まで冷えた。
通報という最終手段は残っているが、この状況で警察になんて言えばいい? 親が捜索願を出すようにも思えないし、そもそも水島は、半分家出しているようにあちこちを遊び回っている。不良の同級生が通報したところで、警察はすぐに腰を上げるだろうか。ここまで来て目の前にいることが分かっているのに、手遅れになるのは嫌だ。拓斗はエンジンを止めると、ニンジャから降りた。ついさっき、廃墟でヘルメットが相手に当たったのは完全に偶然だった。外していたら、確実に刺されていただろう。今回も、同じようにできるだろうか。拓斗は拳を固めたが、伝わってくる手の力は、全く何の役にも立たないぐらいに弱々しく感じられた。
武器になるものがないか周囲を見回したとき、山道を縫うように猛スピードで走ってきた真っ黒な塊が突然ヘッドライトを灯して、急激に方向転換して砂利を弾き飛ばしながら目の前で停まり、拓斗はその場に立ち尽くした。砂煙が煙幕のように舞い上がり、紺色のチェイサーツアラーVが籠ったエンジン音を響かせながらアイドリングを続ける中、運転席から降りてきたヤマタツは首を横に振りながら言った。
「行くな」
「どこに?」
拓斗が拳を固めながら言うと、ヤマタツは目を細めて森の方向を見つめた。
「友達は、あの中にいてんのか?」
「分からん。SNSでは、おることになってる」
拓斗が言うと、ヤマタツは開いた窓から運転席に手を伸ばして、ヘッドライトを消した。