Sandpit
拓斗がエレベーターの方向に意識を向けたとき、何かを外すようなガタンという音が中で鳴り、バイクを見ていた二人の顔が同時にその方向を向くと、両方が中へ足を踏み入れた。拓斗は二人に注意を配りながら、今すぐ二階へ上がるべきか考えた。そして、あまりにも聞き慣れた声が近づいてくることに気づいて、凍り付いた。
「夜は、やっぱ怖かったな。ここまで来たら、鳴らしてもいけるかな」
修哉が言うと、優奈はエントランスを覗き見た。柱の陰になっているが、バイクが停まっているのが見える。その車体は鮮やかな緑色で、記憶していた通りだった。
「あれ、兄ちゃんの?」
「あ、ほんまに来てるやん」
同じように首を伸ばした修哉はそう言うと、スマートフォンを取り出してエントランスに駆け寄った。
「兄貴!」
そう言ったとき、廃墟の入口から出てきた三国と柿虫に気づいて、修哉は足を止めた。三国の手に握られたナイフを見たとき、それを見られたということを理解した三国の目が、鋭く変化した。優奈が修哉の前へ割って入ると、三国に言った。
「まっすぐ、家に帰りませんよね」
三国。朝は喫茶シャレードにいて、夜はスパまつでテレビを見ていた男だ。背格好はもちろん同じだが、同一人物には見えないぐらいに、その目は険しかった。
「何を見た?」
ナイフを順手に持ち替えると、三国は優奈に向かって言った。優奈は、修哉の体を後ろ手で少しずつ押し戻しながら、言った。
「なんも、見てませんよ」
「この二人、なんなん?」
修哉が言ったとき、柿虫は自己紹介を求められたと勘違いして、咳払いをした。三国は振り返って柿虫の顔を睨みつけると、前に向き直った。
「知らん方が、幸せやったな」
三国が間合いを詰めようとしたとき、風切り音が鳴った。柿虫が見ている目の前で、三国の側頭部にヘルメットが直撃し、その体は吹き飛ばされるように傾くと、柱に叩きつけられて止まった。拓斗はエントランスから飛び出すと、柿虫が仲裁するように差し出してきた手を捕まえ、強く引きながら膝蹴りを入れた。小さな体が跳ねて柿虫はうめき声を上げ、その場に崩れた。血まみれになった頭を振りながら立ち上がった三国がナイフを構えたとき、修哉が叫んだ。
「兄ちゃん、ナイフ持ってる!」
三国は、頭をぶつけた衝撃でよろめきながらナイフを突き出した。拓斗はそれをかろうじて避けると、修哉と優奈に向かって両手を振った。
「逃げろ!」
柿虫が腹を押さえながら立ち上がって獅子舞のように大げさによろめいたとき、三国は目の前にいたはずの拓斗が姿を消したことに気づき、顔を左右に振った。新しい足音が近づいてきたとき、その歩幅や踵のぶつかる音を聞き留めて、三国は顔を向けたまま固まった。
ヤマタツは、顔だけこちらを向いている三国と、体ごと振り返った柿虫の両方に向けて、言った。
「セフィーロ停まってるけど、あいつらはここにいてんのか?」
拓斗は、優奈と修哉が逃げた方向に誰も向かわないよう盾になりながら、新しく現れた背の高い男を見据えた。上着だけがジャージで、その台詞といい、生活指導の先生のように見える。
三国は、自分の持つ雰囲気を改めて客観的に見下ろした。ナイフを片手に持っていて、頭は血まみれ。何かを隠していて切羽詰まった事情がない限り、こんな様相にはならない。隠し事がついに発覚した。もうヤマタツが点と点を結ぶ必要はない。ここから全体像を見渡せる。いや、これが全体像だ。
それに、この廃墟のことはヤマタツには伝えていない。何らかの情報を自分で集めない限り、ここには来られなかったはずだ。つまり、ヤマタツはずっと自分たちの動向を探り続けていたのだ。
だとしたら、この瞬間に今までの関係は終わった。
飽きるほど見慣れたミズノのジャージ。不自然に膨らんだ右腰の辺りには、傷だらけのリボルバーが挟まれているのだろう。
「三国さん、こ、答えないと」
柿虫が言いながら傍へ来たとき、かろうじて守ってきた思考の糸を断ち切られて、三国はその顔を睨みつけた。こいつはこの期に及んで、またおれの名前を呼んだ。
「せやな」
三国は呟くと、柿虫の体を掴んでヤマタツのいる方向へ放り投げた。柿虫は咄嗟に手を伸ばして三国の体を掴んだが、勢いに負けて宙に飛ばされると、頭から地面に落ちて転がりながら悲鳴を上げた。三国は廃墟の中へ走り込むと、ガラスの破片を飛び越えながら通用口を探して全力で走った。お気に入りのチビと二人で、トミキチのところへ帰ればいい。自分はもう、関わるつもりはない。
ヤマタツは、地面に横たわって這うように動く柿虫を見下ろすと、その情けなさに苦笑いを浮かべてから、拓斗に言った。
「ひとりで大した奴や。ここは縄張りか? すまんな」
「クソダサジャージ、水島をどこに誘拐したんじゃ!」
拓斗が割れる声で言うと、ヤマタツは自分のジャージを一旦見下ろしてから、顔を上げた。
「何があかんねん、普通やろ。水島って誰や?」
柿虫が身を捩って体を起こそうとしたとき、ヤマタツはその頭をブーツで踏みつけて、地面に押し付けた。
「お前にも聞いてる」
拓斗は言った。
「そこで、おれの連れが轢かれて死んだ。こいつらがやったんや」
踏みつけている下で、否定するように柿虫の頭がぐりぐりと動いた。ヤマタツは体重をかけてその動きを封じると、言った。
「そうか。その、水島ってのは?」
「連れの彼女や」
ヤマタツは、その言葉とボイラーの手前に押し込まれていたセフィーロを結び付けた。トランクは開けっ放しになっていて、中は空っぽだった。ヤマタツは、柿虫の頭から足を離した。自由になった体と引き換えに答えを求められていることに気づいた柿虫は、その場にいる全員に命乞いをするように、言った。
「ニケツの女! ニケツ女です! それ以外は知りません」
柿虫から答えを得ることを諦めて、ヤマタツは拓斗の方を向いた。拓斗は、柿虫の貧弱な表現力にうんざりした様子で言った。
「水島は、川端の後ろに乗ってた。あのセフィーロが夜中に学校前をうろついとったから、おれらが追い払ったんや。なんか探してたっぽいけど」
「そうか。残念やけど、その水島については、ほんまに分からんわ」
ヤマタツの言葉に、拓斗は視線を逸らせた。その先にバイクがあることに気づいたヤマタツは、柿虫の首を掴んで引きずると、自分も数歩後ろへ下がった。
「追いかけるんか」
「居場所が分かったらな」
柱の傍に転がる傷だらけのヘルメットを拾い上げた拓斗は、スタンドを下ろすと、エンジンをかけることなく押していった。後ろを一度振り返ったが、真っ暗な廃墟のシルエットが浮かび上がっているだけで、人間の形をしたものは一切、後を追ってこなかった。
クソダサジャージがいなかったら、あのままとんでもないことになっていた。それだけは疑いようのない事実として、頭の中に刻まれた。前を走る道路まで出たところでエンジンをかけたとき、人影が暗闇から駆け寄ってきたことに気づいて、思わず体を引いた拓斗はバイクごと転倒しそうになるギリギリで耐え、エンジンを止めてヘルメットをハンドルバーにかけた。ヘルメットの傷にいち早く気づいた修哉が、拓斗の顔を点検するように見ながら言った。