Sandpit
優奈は、ほとんど条件反射のように言葉だけを発した。修哉がブレーキをかけてスピードを調節し、リアのブレーキドラムが情けない金切り音を立てたとき、優奈は続けた。
「時間なんか、全然平等じゃない。むしろ、時間が一番不平等やわ」
「もっと、自分の時間が欲しい?」
修哉が前と横に顔を交互に向けながら言うと、優奈は俯き加減のまま首を横に振った。
「みんなと同じように、時間を使いたい。だってさ、こんな肝試しみたいなん、後藤くん想像してた? うちら、二人で遊ぶんすら初めてやのに」
修哉は真っ暗な道と優奈の言葉を対比するように辺りを見回してから、肩をすくめた。
「おれは、めっちゃ嬉しい。廃墟とか、ああいう建物好きやから。夕方にこの道通るって、言ってたやん。おれいつも、あの廃墟の中で時間潰しててん」
優奈は文字通りに受け取る直前、修哉の横顔に視線を向けた。自分が落ち込んでいることを察して、その理由が分からないまま繕ってくれたようにも、思えない。
「そのために、塾まで遠回りしてたん?」
優奈が言うと、修哉は恥ずかしそうに頭を少しだけ下げた。
「うん。やから今は、めっちゃテンション上がってる。タイミングが合ったら、中林さんを夕方に誘おうと思ってたぐらいやから」
下り坂が終わり、二人で同時にペダルを漕ぎ出しながら、優奈は言った。
「初デートは、どうなってもあの廃墟やったってこと? 時間が違うだけで?」
「そういうことです。変人でごめん」
修哉はそう言ったとき、優奈が言った『初デート』という言葉を頭で認識するのと同時に、ペダルから足を踏み外した。優奈はその反応で自分が発した言葉を頭の中で繰り返し、ふらつくハンドルを掴む手に力を籠めなおした。修哉は咳ばらいをすると、続けた。
「アピールポイントは、三階の広間。町が全部見えるんよ。貸切状態。中林さんの家も見える」
「屋上は? 屋上に置いてるものは見える?」
優奈が言うと、修哉は首を横に振りながら笑った。
「豆粒サイズやから、双眼鏡でもないと見えへんと思う」
その言葉を受けて、優奈が軽くなった体から息を吐きだしたとき、銃眼のような割れた窓が無数に並ぶ廃ホテルが、姿を現した。
自転車のスピードを緩めながら、修哉は言った。
「相変わらず、渋いわー」
「渋さが、全然分からん」
優奈はくすくすと笑いながら、修哉に合わせて自転車から降りた。修哉はスマートフォンを取り出すと、着信履歴に目を通した。拓斗の番号を五回鳴らしたが、何度見ても結果は同じで、折り返しの着信はない。スマートフォンをポケットに仕舞いこんだとき、後ろから車のエンジン音が聞こえてきて、修哉は振り返った。優奈が修哉の体をやんわりと歩道側に寄せたとき、猛スピードで走る紺色のチェイサーは二人を追い越してからヘッドライトを点けた。
「無灯火やん。ヤバすぎ」
修哉が思わず言ったとき、チェイサーはタイヤを鳴らしながら交差点を左折して、姿を消した。優奈は、左折する直前に光ったブレーキランプの形に見覚えがあることに気づいた。ここに来るまでの道で、同じ車を見かけた気がする。
中林環境サービスから男女の中学生コンビが出てきて、自転車で橋を通る前、ヤマタツはチェイサーに乗ったまま二人とすれ違ったが、注目されることは全くなかった。三国の言う通りなら、女子の名前は『中林ユウナ』で、男子はおそらく『ゴトウ』。外見の特徴とも一致する。仲良く山道へ入っていくのを見届けてから追いかけ、ついさっき廃墟の手前で追い越した。この時間にデートとは、中々の不良カップルだ。廃墟を通り過ぎて交差点を左折したところで、ヤマタツは周囲を見回した。そして、側道の中に引っ込んで停まっているホンダライフを見たとき、急ブレーキを踏んだ。
あれは、柿虫の車だ。
ヤマタツは大きく車体を反対側に振ってからUターンして林道に入ると、チェイサーのアクセルを踏み込んだ。エンジンが唸って回転を上げ、車体が枝をかき分けるように折る音が車内に響く中、考えた。廃墟にしては道が開けていて、車が通った跡が残っている。真正面に辿り着く手前でヘッドライトを消すと、ヤマタツは道を塞ぐように斜めにチェイサーを寄せ、エンジンを止めた。
人の気配がこんなに多い廃墟も珍しい。チェイサーからできるだけ静かに降りたヤマタツは、早足で歩きながら考えた。さっきの不良カップルがこの廃墟を目指しているのなら、三国や柿虫とは絶対に引き合わせてはならない。
自分も含めて、子供が絶対に関わってはいけない部類の人間だ。
柿虫はセフィーロの中へ漂白剤を撒き終えて、ひと仕事終えたように額の汗を拭った。三国はナイフを片手に持ったまま、その全体を眺めた。ナンバープレートが外されているのは、吹谷とモッサンがやったのだろうか。がらんどうになった窓越しに、エレベーターから何かが動く音もする。この廃墟は、何かと騒がしい。トタンの板が脇にどけられた状態なのも、気にかかる。まるで、あの二人が養生した後で誰かがひっくり返したようだ。
「終わりました、はい」
柿虫は空になったボトルから指紋をふき取ると、息を止めたままセフィーロの中へ投げ込んだ。三国はトランクを指差して、言った。
「開けろ」
柿虫は再度息を止めて屈みこむと、ドア脇に手を突っ込んでリリースレバーを操作した。三国はトランクを引き上げて息を吸い込むのと同時に、結論を出した。
「女は、この中に閉じ込められてた」
「女って、あのニケツの女ですか?」
「そうや。ここにはおらん」
三国はそう言って、答えを求めるように首を左右に振った。半分以上木に隠れているが、エントランスが見える。その隙間に木とは違う色合いの緑色が混ざっていることに気づいたとき、身を低くして柿虫を手で呼んだ。
「おい、あのバイク」
例の、空ぶかししてきた赤のバイクと一緒にいた、緑のバイク。それが廃墟の入口に停められている。三国はナイフを逆手に持ち、柿虫に向かって顎をしゃくった。
「行け」
柿虫のすぐ後ろを歩き、三国はエントランスやバイクの陰を見渡した。持ち主は近くにいるはずだ。バイクの前まで来たとき、柿虫がエンジンに手をかざして、言った。
「熱が残っています、はい」
三国は目線を動かしたとき、真っ暗な一階の奥で、影が微かに動いたことに気づいた。それを見逃した風を装って顔を前に向け、視線を逸らせたまま柿虫に耳打ちした。
「中に、人がいてる」
拓斗は、足音を聞いて咄嗟に隠れた自分の判断が正しかったということを、バイクの前に立つ二人組の出で立ちから判断した。そして今、背が高い方と目が合った気がする。右手に大きなナイフを持っていて、その目つきは遠くからでも、全く光を跳ね返さない類の暗いものだということが、分かった。いつもなら慣れた手つきで抱えていられるはずのヘルメットが、今は汗で滑り落ちそうになっている。それに、さっき気づいたことだが、エレベーターの辺りにも人がいる。