Sandpit
四
修哉は、やはり変な中学生だ。要塞のように聳え立つ真っ黒な廃墟を見上げて、拓斗は思わず身震いした。新今垣観光ホテル。こんな場所、昼でも近づきたいとは思わない。割れた窓はブラックホールのように光を跳ね返さず、遠くの照明柱から流れてきたナトリウム灯の光で、かろうじて全体がオレンジ色に照らされて見える。ニンジャから降りてエンジンを停めると、拓斗はスタンドを起こした。
目線を下ろしたときに、ジーンズのポケットの中でスマートフォンが光っているのが見えたが、拓斗は身の安全を確保するために、ガラス片が散乱するエントランスに目を凝らせた。中で音がする。人なのかも、分からない。袋を引きずるような、微かな音。不意に全身に鳥肌が立ち、拓斗はヘルメットを小脇に抱えたまま、エントランスには近づかないように体を引くと、ホテルの外周を歩き始めた。そして、トタンが被せられているセフィーロを見つけたとき、ヘルメットを握る手に再び力が籠るのを感じた。ナンバープレートはついていないが、あの車で間違いない。拓斗は片手でトタンの板切れを引っ張ると、地面に引きずり下ろした。場違いなぐらいに大きな音が鳴り響き、拓斗はそれを足で踏んで乗り越えると、大穴が空いたフロントガラスに気づいて、ドアを蹴飛ばすと顔を逸らせた。
「こいつ……」
車ではなく、これを運転していた人間が轢いたのだ。それは分かっているが、今は川端の死に繋がった全てが憎かった。ドアの鍵はかかっておらず、拓斗は服の袖で手を覆ってから、静かにドアを開けた。また、さっきの引きずるような音が聞こえた気がして、拓斗は身構えたまま体を低く下げた。
バイクの音がどんどん近づいてきたと思ったら、ホテルの前で停まった。まさかとは思ったが、来客だ。逃げ出すことばかりが頭にあって、向こうからやって来るものに対処する方法は、考えてもいなかった。モッサンは、打撲だけで折れてはいなさそうな右肩をゆっくりと動かし、握力が残っているか確認した。足から落ちないようにするためには、両手で天板を掴んでぶら下がるしかないが、手にその力が残っているかは、ちょっと握りしめたぐらいでは全く判断がつかない。足がついたらと思うと、その痛みを想像しただけで気を失いそうになる。条件は、刻一刻と悪化していた。天板から飛び降りようと考えて、次第に腫れてくる足の痛みと相談している内に、それは体を浮かせることすらできないぐらいの激痛になっている。
ただ、このカゴの中に入ってきてくれれば、真上から拳銃で仕留めることができる。わざわざ見に来るような人間がいるとは思えないし、可能な限り呼びたくないが。もしかしたら、クッション代わりになるかもしれない。おとぎ話のような考えが頭に浮かんで、モッサンは体勢を立て直した。ウェイストポーチに収まるS&WM640のことを考えている内に、その妄想は少しずつ現実味を増していった。
「行き過ぎてから、側道で止めろ。一発で行けよ」
三国が言うと、柿虫はうなずきながら神経質な手つきでハンドルを握り直した。ホテルの廃墟をやり過ごして交差点で左折し、タイヤを軋ませながらUターンさせると、バックで側道の中へ滑り込ませて停めた。三国は、ひと仕事終えたように息をついた。
「上出来や。行くぞ」
柿虫がエンジンを止めて後部座席から漂白剤のボトルを掴み取ったとき、三国は助手席から降りた。上着のポケットに手を入れてシースケースのホックを外し、いつでもナイフを抜ける状態にしてから柿虫を振り返った。目が合った途端に慌てて小走りになった柿虫は、三国の隣に立って言った。
「い、いきましょう」
「行けや。先、歩け」
三国は柿虫の背中を押すと、後ろに続いた。真っ暗な交差点を渡るときに自分たちを照らす光源が消え、完全な真っ暗闇になった。次にこういうチャンスが来たら。
柿虫を刺し殺して消えるというのも、ありかもしれない。
拓斗は、スマートフォンで運転席の足元を照らしながらトランクのレバーを引いた。暗闇に慣れると、頭は自然と水島のことを思い出し始めていた。そのために、ここに来たようなものだ。
「水島?」
トランクの前に立つと、拓斗は驚かせないように声を掛けた。頭の中には何の確証もないのに、無意識に『生きていてほしい』と願っている。意を決して、拓斗はトランクを持ち上げた。新品のバッテリーが奥に置かれていて、半分ほど使われた引越し用のロープが転がっているだけで、それ以外には何も入っていなかった。水島がこの中で死んでいるのではないかと、無意識に最悪の事態を想定していた。胸をなでおろした拓斗は、トランクを閉めながら息を吸い込んだとき、誤魔化しようのない事実に気づいた。香水の匂いが残っている。
水島は、ここにいたのだ。
抜け出す方法は、無数にある。礼美は息を殺しながら、スマートフォンのロック画面に表示されている現在時刻を見つめた。九時四十五分。夜に使うと本当に悪いことをしているみたいで、成功したときには罪悪感が残った。それでも、動こうとする体を止める術はなく、部屋に上がってほとんどすぐに、家から抜け出した。寧々が最後に見せた表情が気にかかっていたし、あっさり店から出て行ったのも不思議だった。
そして、自分の勘は当たっていた。理由は分からないが、寧々は屋上キャンプという単語を聞いたとき、自分で見に行きたいと思ったのだろう。今は電話で誰かと話しながら屋上から町を見下ろしていて、空調の真後ろに隠れている自分には気づいていない。
電話さえしていなかったら、話しかけても構わないと思っていた。盗み聞きするような趣味もないし、キャンプのこだわりについて紹介したかったぐらいだ。本来は人の家なのだから不法侵入だが、寧々が足跡を残した場所であれば、自分も足を踏み入れる権利があるような気がしていた。今は、留守番でいるはずの優奈すらいない。『家おらん?』というメッセージを送ったのが十分前で、まだ既読はついていなかった。
寧々は、町の景色を見下ろしながら思った。ほとんどの情報は、この屋上から見渡せる。見張りには、絶好の場所だ。あまりにも合理的で、テントの中も機能的にまとめられている。いくら綺麗好きでも、その整頓ぶりは十四歳の少女にできる限界を超えていた。つまりここは、仕事場だ。
「ほなあ、梶木を迎えに寄越します。集まってからの話で、構いまへんか?」
我妻が言い、寧々はうなずきながら言った。
「いいよ。場所はどうする?」
「そうですな。馬の背を使いまひょか」
我妻と梶木のホームグラウンド。寧々は小さく息をつくと、言った。
「馬の背ね、了解」
通話を終えてスマートフォンを仕舞いこむと、寧々は力いっぱい深呼吸をして、息を吐き出すのと同時に顔を覆った。この仕事の先には、昌平の背中が見えている。いずれは、そうなるのだ。だとしたら、その原因を根本から叩き潰すしかない。例え自分が捕まって、今度こそ刑務所から出られないとしても。優奈が昌平のように命を落とす瞬間を想像して、寧々は身震いした。もう、そんなリスクは冒さない。
我妻と梶木には、最後の仕事をやってもらう。