Sandpit
その二つはずっと密接に繋がっていて、どちらも受け入れてきた。
『朝まで雨やから、スリップに気をつけて。愛実も寝たし、私もそろそろ寝ます。おやすみなさい』
メッセージを手早く打つと、雪美は送信ボタンを押してテレビに目を向けた。愛実が起きないよう消音にしているが、また夜中に目を覚ますだろう。だとしたら、眠気が来ている今の内に、自分も寝ておくべきだ。雪美はソファの上で横になる前に、テレビに表示された時計に視線を向けた。午後九時三十分。それが例え何時であっても、自分にできることはひとつ。速人が可能な限り安全な場所にいることを、祈るだけだ。
そう思って目を閉じかけたとき、手の中でスマートフォンが震えた。
『明日の朝までには、一回帰る。ご飯とかは大丈夫やから、寝といてくれ。おやすみ』
メッセージを送信すると、三国はホンダライフの助手席で体を伸ばした。フォレスターに比べると、あまりにも車内が狭い。
「おれは、モッサンがセフィーロに乗ってたんやと思うわ」
ほとんど事実に近いようにも感じられる仮説を話し始めて、数分が過ぎている。柿虫は居心地が悪そうに体を捩りながら、ライフのアクセルを緩めた。
「はい。モッサンなら、運転をしたがるかと思います」
「やろ。吹谷とモッサンをペアにしたんが、まずかったんやで」
あのバイクの片割れが、セフィーロを追いかけてきた。運悪く、ハンドルを握っていたのはモッサンで、吹谷が何かを言う前にバイクに激突させて、殺した。そしてあの頭の出来なら、目の前の廃墟に車を隠すだろう。その仮説は柿虫の頭にも浸透した様子だったが、自分の車で廃墟に向かっているということが、かなり気に入らないようだった。
「でも、ですね。目の前の廃墟に車を置いて、そこからどこへ行ったんでしょう」
柿虫が言い、三国は窓の外を眺めながら笑った。バックミラーに映る景色は、等間隔に建てられた照明柱から出るナトリウム灯の光だけで、ガードレールから先は真っ暗。いよいよ、山道に入った。三国はダッシュボードからシースケースに入ったS&Wのナイフを取り出すと、上着のポケットに押し込みながら言った。
「まだ、おったりしてな」
後部座席に置いた漂白剤が、車体が揺れるのにワンテンポ遅れて、情けない音を鳴らしている。触覚を切られた昆虫のように歩き回るだけの人間。三国はこの一日で、自分の立ち位置に対する解釈を大幅に修正していた。積荷を見つけて表向きの仕事が終わった後も、そこから丸一日、漂白剤を片手にどこかへ消えたセフィーロを探し回っている。柿虫はそれが仕事だと思っているし、融通が利かないタイプだから、ひとりでも探し続けるだろう。どの道、失敗を隠すためにやっていることだから、誰にも報告できない。そして、いつか電話が鳴る。相手はおそらく、ヤマタツかトミキチだ。
アウトランダーと死んだ大男の件は、ネットニュースに載った。
勝手に逃げ出して、頭を文字通りサッカーボール代わりにされた紺野がそうだったように、自分たちにもそのときが来る。その結論をトミキチがすでに出しているとしたら、この車から一歩外に出たら最後、もう味方はいない。三国は上着のポケットに窮屈そうに収まるナイフに、一度触れた。今は、自分が出て行くための道を見つけなければならない。
まず、これは柿虫の車だ。だから、今やっていることで目撃証言があったとして、辿り着くのは自分ではない。最初は、このホンダライフの持ち主が探される。問題は、自分を繋ぐ最も大きな接点。例の中林家の娘だ。目が合ったし、柿虫のおかげでこちらの名前も知られている。
「ケータイ出せ」
三国は窓から見える景色に向かって、呟いた。柿虫は瞬きを繰り返してから、三国の方を向いた。
「運転中です、はい」
柿虫が前に向き直ったとき、三国はいびつな形の耳を掴んで、力任せにねじり上げた。ハンドル操作がぶれてセンターラインを踏んだタイヤが唸り音を鳴らし、三国が力を緩めると柿虫はふらつく車体を元の軌道に戻し、体を震わせながら歯をカチカチと鳴らした。
「あの……、あの! ハンドル操作を誤ると、事故に繋がります」
「せやな。好きに事故れや。おれの話、聞いてたか?」
三国がそう言って、まだ耳を掴む手に力を籠めた。
「ケータイのために死にたいか? 頭使え」
柿虫はハンドルから片手を離すと、ズボンのポケットからスマートフォンを引き抜いて、センターコンソールの上に置いた。三国はそれを上着の左ポケットに突っ込むと、柿虫の耳から手を離した。ときどき、柿虫はヤマタツに『現状報告』をする。今から起きることは、誰にも報告させない。これで、初めて公平だ。
トミキチが頭の中で考えていることは、今まで一度も分かった試しがなかった。
小雨に打たれながら、折れ曲がった柱に縋りついている『西浅香スポーツセンター』の看板。高規格の国道から逸れて十キロほど山の中を進んだ先で、路肩に等間隔に埋められたタイヤが、かつて公園やアスレチックの場だったということを気づかせる以外は、セミナーハウスやプール跡が残るだけの広大な荒れ地だった。梨沙子は、我妻と梶木の後ろをついて歩きながら、数メートル先はほとんど真っ暗に見える林道を見つめた。二人の手順は、今までに何度もやってきたように手慣れていた。
まず梶木は、林道に入る手前でジムニーを停めた。梨沙子がアコードに移ると、我妻がヘッドライトを消し、オート5を担いだ梶木は乗り込むことなく前を歩き始めた。我妻はブレーキランプを光らせることなく、先導に合わせてゆっくりとアコードを進め、駐車場跡で器用にUターンさせてから、サイドブレーキだけで車体を完全に停止させた。しわくちゃの手によってエンジンが止められたとき、梨沙子は言った。
「ここから、どうするんですか?」
我妻はコルトM1903をベルトから抜き取ると、スライドを引いて薬室に弾を装填してから、小声で言った。
「出方を見まひょか。乗ってると、ええ的なんでね。降りましょう」
梨沙子はうなずくと、できるだけ静かにドアノブを動かして、ドアを開けた。我妻は忍者のような手つきで運転席のドアを開けながら、呟いた。
「ええ心がけです」
梶木は、オート5の薬室を少しだけ開いて散弾のリムが見えることを確認してから、木々の隙間に体を隠して、セミナーハウスの近くに目を凝らせた。タイヤの痕が、微かに見える。我妻は梨沙子に頭を低くするよう手でジェスチャーを繰り返し、へっぴり腰で梶木の方へ近づいた。梨沙子がハンドバッグを手で押さえながら後ろをついて行き、セミナーハウスの近くまで来たとき、梶木は囁くように言った。
「おそらく、人がおるのはプールの側です。更衣室の建物が怪しい」
「あの大きい建物とは、ちゃうんですか?」
梨沙子が言うと、我妻が横から補足するように言った。
「あっちは、うちらがこうやって上から見れるでしょう。私やったら、待ち伏せには使いまへん」
梨沙子が納得したようにうなずくと、我妻はM1903を片手に持ち、目を細めて地形を眺めた。